第5話 黄色い殺人鬼

 ※ 


 ドアベルが虚しく鳴った。

 赤いラジオから、夕方のニュースが流れている。


 沙耶の隣で、紫苑が漫画をパタリと閉じた。紫苑は本棚へと漫画を戻しに行く。沙耶はクリームソーダの残りを吸いきると、ポケットから千円札を取り出した。


 由紀子と大男の会話から、収穫はなかった。由紀子がしつこく帰れと促し、大男が渋々了承しただけ。彼がアメリカに帰るとなれば、もはやどうでもいい。本棚から帰ってきた紫苑に、沙耶は言った。


「ミック、私たちも帰ろっか」

「だから私は――」

「ごめん。紫苑だったね。何か思い出せそう?」


 紫苑は首を横に振った。しかたない。由紀子と同じ空間にいたというのに、彼女はただ漫画を読んでいただけだった。信じられないことだが、これは事実だ。


「行こっか」

「うん」と紫苑はうなずくと、丹波に言った。


「マスター、私、家に帰ってみる」

「き、気を付けるんだよ。こ、今夜も、二階使っていいから」


「ありがとう」


 紫苑と沙耶は、会計を済ませて店を出た。空を仰げば、日が暮れていた。

 

 明日はどうしようか。妃沙耶の帰る場所は、あるにはある。紫苑は、自分の家が分かるのだろうか。紫苑は沙耶の隣で背を丸めて歩いている。


「あのさ、ミ……紫苑」

「うん?」


「自分のおうち、分かる?」

「……うん。もちろん分かるよ。公園の方」


「今、公園と逆の方に歩いてるけど」

「うん」


「こっちは私の家の方だよ」

「別にいいよ。私、沙耶を見送ってから帰るから」


「えっ」


 沙耶は自分の胸が高鳴る気がした。ミックを思い出す。


「私の家、分かるっけ?」


 しかし、紫苑は「分からない」と答えて、続けた。


「だから教えてくれる? 私、気がついたらあなたのことを忘れていて。でも、あなたが教えてくれたから、お兄ちゃんの葬式に出れた。私、あなたが言うミックじゃないけど、沙耶とお友達になりたいな」

「……うん」


 沙耶は立ち止まった。私と別れたら、紫苑は家まで一人で帰ることになる。こんな夜道を紫苑一人で歩かせていいのだろうか。


「どうしたの、沙耶」

「私が紫苑のおうちまで送るよ。公園までは駅前通るから危ないし」


「いいの?」

「うん。さ、行こ」


 沙耶は紫苑の手を握って、駅の方へ戻った。

 

 裏通りにあるスナックやホテルを抜けて、表の家電量販店の通りに出る。駅へと道なりに歩くと、ロータリーで信号待ちになった。あとは高架下をくぐって井の頭公園へ下ればいい。


 ふと、紫苑が沙耶の手をぎゅっと握った。


「……沙耶、何か聞こえない?」

「え?」


 JR線が高架線路を走り、帰宅ラッシュのバスとタクシーが、ハイブリッド車特有のモーター音を静かに唸らせる。それよりも、学生や労働者の会話や足音、冷たい夜風が鼓膜を震わせた。


「……何か、嫌な音がするの」


 沙耶には分からなかった。歩道の信号が青になる。周りの人たちが手元の端末を見ながら歩き始めた。怖くなって、辺りを見回した刹那――。


 どわっ。


 ざわめきが沸いて、人波が開く。沙耶は咄嗟に振り向いた。二人を横切る黄色の車体。赤信号を無視して爆走するタクシーが、二三台の車に車体を擦らせながら、駅前交番に突っ込んだ。


 時速百キロを超すだろう二トン近い質量の激突が、澄ませていた耳を劈く。沙耶と紫苑は、両耳を塞いだまま、クラクションの止まない車体を見た。


 しゅうぅ……と煙が上がり、孵る直前の卵のようにガタガタと揺れた。


 歪んだ後部ドアが蹴破られ、人影が出てくる。小柄であった。紫苑より小さなその影は、イエローのパーカーでフードを被っており、力なく肩を落として前屈みでふらりと歩いた。 


 怪我人だ、助けにいこうか。いや、怪しい奴だ。

 沙耶を含めた群集が動けずにいる中、紫苑は小柄な影に歩み寄った。


「紫苑! ダメだって、帰ろう!」

「この人、怪我してるかもしれないよ! ドライバーさんだってまだ……!」

「紫苑……!」


 沙耶の引き留める手を振り払い、紫苑は小柄な影の前に立つ。

 影の口元が、いじらしく笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る