第一章 失われた青春をもとめて

第1話 失われた青春をもとめて

 彼は、パスポートの「荒川梗治」の名を見るたびに違和感を覚えた。


 今の彼にとって、その名は出入国検査用のパスワードに過ぎない。

 戦友に「往年のアーノルド・シュワルツェネッガーのようだ」と言われた筋肉質の外見からしても、和名は合わないと思った。


 彼はアレクと名乗るようになっていた。


 羽田空港の入国審査が終わると、アレクは国際線ターミナルのバーでウィスキーを頼んで一息ついた。薄型携帯端末のモニターに、ひと月前に届いたメールを表示して読み直した。


『梗治へ 折笠悠です。元気にお過ごしでしょうか。さて、こんな私にも縁あって、今度入籍することになりました。来月、披露宴を行うことになりましたので、親友の君にも来てもらいたいと思い連絡をしました。君と会えるのを楽しみにしています。』


 SNSで警察官になったことは知っていたが、好青年然とした悠が結婚するのは喜ばしい。


「元気にしてるかな」


 アレクの瞳は、アルコールの力も相まってサングラスの下で穏やかになった。


 ホテルで一夜を過ごし、翌朝はやく京急線に乗った。心なしか十年前よりも人が少ない。高齢社会が嘘のように、老人を見かけなかった。


 アレクは車内で、視界に入った老人と子供の数を数えてみた。どちらも片手で数えられる程度で、少子化は続いている。


 品川で八両編成に縮小された山手線に乗り換え、渋谷、新宿と世界的に大きな駅を過ぎていったが、様々な肌色の外国人観光客と、無表情な東京人の取り合わせは平成から変わらない。


 休日の朝だからか、まばらに空席が伺える。


 新宿で乗り換えたオレンジバーミリオンの中央線快速電車は、十年前の十両から六両編成へと短くなっていた。

 

 久しぶりの日本語と、よくわからない流行語が飛び交う中吊り広告とモニターのCMに頭を痛めながら、アレクの乗る電車は吉祥寺駅に着いた。


 アレクはプラットフォームに降りると、少し伸びた一九〇センチの視界から、駅前を見回した。


 シネコンの大型ビジョンは一回り大きくなり、十年前に見た冷凍睡眠コールド・スリープ保険の胡散臭い広告が以前よりでかでかと表示されていた。


 改札を抜けて北口に出ると、午前九時前のロータリーはまだ静かだった。


 アレクは悠の住まいを訪ねようとしていた。式場は吉祥寺にあるホテルだから、今朝はまだ自宅にいるだろう。驚かせてやろうとにやけつつ、アレクは線路沿いを東に歩き、シネコンの暗い脇道を通った。


 シネコンのビルの一階はパチンコ店であり、専用駐輪場に止められた自転車がドミノのように崩れていた。裏通りに出て右に曲がると、風俗店やホテルと並び、煉瓦風の外見をした三階建ての雑居ビルがあった。


 ビルの右側に上下階段がある。道路を踊り場に見立てると、右手に上り、左手に下り階段で、降りた半地下には珈琲店がある。上り階段の先が、メールに書かれていた折笠悠の住居だった。


 階段を上がり、二階すぐのドア前に立つと、アレクは深呼吸してから、インターホンを押した。


 ――物音ひとつない。再度インターホンを押した。

 

 それでも反応はない。

 

 不在か、眠っているか……。


 アレクは携帯端末から悠の電話に発信した。

 間もなく『この電話は電波の切れている場所にあるか、電源が入っておりません』というメッセージが流れた。


 電話を切る。アレクは無性に腹が立って、アルミ製のドアを叩いた。


「悠! いるんだろ? 出てこい!」


 怒鳴るも、反響が残るだけだった。十年ぶりの再会なのだ、電話にも出ないのは得心いかない。アレクはムキになってしつこくドアを叩き続けた。


 いい加減、大きな窪みでもつくろうか。アレクが握り拳を引いて構えると、


「お、おい君! そこで何をしてるんだ!」


 と、階段下から男の怒鳴り声がした。


 アレクが正拳突きの構えを解いて声のした方を見下ろすと、太った男のシルエットが立っていた。階段を降りながら男の顔をうかがう。丸い顔に黒縁眼鏡をかけ、癖毛の短髪を掻いている。


 男はでっぷりとした腹を隠すように、ジーンズ生地のエプロンを引っ張った。

 迫るアレクに、男は顔を上げる。

 男は眼鏡を押し上げて一歩退き、強張った物言いで訊いた。


「わ、私は、一階で珈琲店をやっている丹波だ。き、君は何者だね?」

「アレクだ。そこに住んでる折笠悠の結婚披露宴に招待されたから、挨拶に来た」


 アレクがそう言うと、丹波は顔をしかめた。


「け、結婚披露宴? 君は、冠婚葬祭の違いも分からないのか?」 

「……はあ?」

「ゆ、悠くんは、三日前に事故で死んだよ」


 耳を疑った。


 死んだ……? 悠が、死んだ? 


 アレクは携帯端末を取り出して、丹波にまくし立てた。


「俺が結婚式と葬式を間違えたと言いたいのか? こいつを見ろよ、披露宴の招待メールだ。見ろ!」

「いや、いやいや待ってくれ! 知ってるよ! 悠くんが結婚することは聞いた! でも……三日前に車に轢かれたって――」


「冗談じゃない。今日は第一ホテルで結婚披露宴があるんだ。あいつはこの家にいて、俺は一足早く再会して、旧交を温めるんだ! それこそ、あんたの店でモーニングコーヒーを飲みながらでもいい! なあ、ここにいるはずだろ? 悠は――死んじゃいないよな?」


 アレクは、丹波に訴えながらサングラスの奥で何度も瞬きをした。瞬きを止めれば、涙が流れる気がした。彼女に続いて、どうして悠まで死ななければならない? しかし、丹波は俯いていた。


「き、昨日が通夜だった。今朝は告別式だよ。私は店があるから行けないが……君は友人なんだろう? 故人との別れはちゃんと済ませた方がいい」


 丹波は本当にやるせないようだった。

 アレクは両の拳を握りしめ、荒れる息を整えて言った。


「……丹波さん、だったか。すまないが、喪服を貸してくれないか。……用意がない」


 丹波は、エプロンの下で主張する自分の腹を撫でた。


「サ、サイズ、合わないと思うけど……」


 雑居ビルの三階が丹波の住まいだったので、喪服はすぐ借りられた。

 しかし上着の肩幅は狭いし、ワイシャツの袖はぴっちりで、腹の布が余って二段腹のように垂れた。


 スラックスも、尻がダボつくのに腿はタイツのように貼り付く。アレクは破けそうな喪服を諦め、元のレザージャケットとジーンズで斎場に行くことにした。


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