第14話 行政解剖

「おはようさん」

「ああ、おはよう」

 朝早くに起きた祖母が台所でお茶を沸かしていると、トイレに立った父とあいさつを交わすのが二人の日課になっていた。

 だが、その朝だけは違っていた。

 祖母がなんとはなしに父の部屋のドアを開ける。

 布団の中で静かに仰臥する父に歩みよる。

 異変に気づき、顔をのぞき込む。

 声をかけるが反応がない。

 体を揺するが反応がない。

 祖母は慌てて119番にかける。

 間もなく救急車が到着する。

 隊員が父の脈拍や瞳孔を確認する。

 父がゆっくり担架に乗せられる。

 祖母は取るものもとりあえず、救急車に同乗する。


 かかりつけの病院に着くと、父の死亡が確認がされたが、死因が不明なので行政解剖すると主治医から告知された。

 祖母はそれを泣く泣く飲んだ。

 そのあとで、母に電話してきたのだ。

 母がぽろぽろ泣いていた理由はそれだった。


 夫婦は不思議だと思う。

 人や女性としての尊厳を奪われ、あれほど苦労して別れたというのに……母は父の死を惜しみなく悼んでいた。

 私の心が父を亡くしたのは十歳のころだ。

 それからは心理的にも物理的にも孤独で苦労が絶えない十代を過ごした。

 夢を追う余裕などなく、生きる気力すら失いかけた。

 その元凶である父に、今さら涙も何も出やしなかった。


 父の行政解剖の結果が出た。

 長期多量飲酒から発症した、2型糖尿病の合併症による心筋梗塞だった。

 まだ、いっしょに暮らしていたころ、朝に父が吐血したことがあった。

 当時流行していた黄緑色のカーペットをどす黒い血で染め、救急車で運ばれていった。

 母は慌てふためき、私はランドセルを背負ったまま石になった。

 今に始まったことではなかったのだ。


 母が父の通夜を手伝いにいった。

 私は自宅で一人なぜか“のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にいて足乳根の母は死にたまふなり”という、◯藤茂吉の短歌を思いだして噛みしめた。

 それが父に対する唯一の弔意だったのかもしれない。


 葬儀に向かう前、父の元同僚二人が自宅の私を訪ねて説得を試みた。

「いろいろあったのはわかるけど後悔するから、ねっ!」

 アホ面のおちょぼ口のほうが、パジャマ姿だった私の胸元を上からのぞき込み、両肩をさすった。

『父に借りてた金返せ!この、エロ狸!』

 私は父が親しくしていたその男が大嫌いだった。

 参列をかたくなに断ると、エロ狸は諦めて母と同僚と自宅を出ていった。




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