第8話 狂気

 幼少期、私はよく父に折檻された。

 今で言う、児童虐待だった。

 釘でも打つように頭をぶたれて首を縮められたり、公共住宅の高層階の窓から上半身をぶら下げられ、落とされそうにもなった。

『殺される!』

 私は抵抗し、反撃し、逃げまわった。

 だが、結局、捕まって泣かされてしまうのだった。

 父は自分より弱い者=母や私を見つけて憂さを晴らした。

 母はデパートの包装紙の裏に“わかれたいわかれたい……”と、びっしり書きつらねて心を病んだ。

 私は自分より弱い者=無抵抗な同級生を見つけて憂さを晴らした。

 物陰で首を絞めたり、おもちゃの飛びだしナイフを持って追いかけまわしたりした。

 いじめの構造はくり下げ方式だ。

 対象に己の弱さを投影する、同族嫌悪だ。

 対象にいっさい落ち度はない。

 少なくとも私の場合はそうだった。

 私は三歳以降の記憶が鮮明なのだが、折檻されるような悪さをした覚えはひとつもないので、すべては父のやつあたりだったのだろう。

 お陰で、それがトラウマになり、父が家を出たあとも原因不明に吐いたり倒れたりした。

 成人してからも、しばらくは男性不信が続き、運命の彼と逢って父が世間一般の男性と乖離しているとわかるまでは、

『男は皆、私の敵!』

という、悲壮な認知バイアスがあった。


 幼少期、私はよくベランダに放置された。

“私が謝れば鍵を開ける”というルールらしかったが、理不尽だと思い黙っていると

「放っておけばいいんだ!」

「可哀想じゃない!」

 夫婦でひと悶着あったあと、折りを見て母が鍵を開けてくれた。

 私は慣れっこだったが、その日は運悪く尿意を催してしまった。

「開けてー!おしっこー!」

 私は足踏みしながら訴えた。

「開けてー!漏れちゃう!」

 小さな拳でガラス戸を叩いた。

「漏れちゃう!漏れちゃうよー!」

 物理的限界が近づく。

 そのとき、端に立てかけてあった竹馬に目が留まった。

 赤色に樹脂コーティングされたアルミ製の竹馬……。

 父が私に買いあたえた物だ。

 私は冷静だったはずだ。

 長袖シャツの両方を指先まで伸ばして片方の竹馬を握ると、サッシで上下にわかれた下のガラス戸目がけてふり被った。

 強化加工されていないガラスは簡単に割れ、派手な音を立てた。

「何やってんだ!」

 父の怒号が飛ぶ。

 私はおかまいなしに、開けた穴の周囲の鋭利な部分を竹馬の先で突っついて落とした。

 穴に腕を通すがクレセント錠まで届かない。

 私はふたたび、竹馬の先を使って室内に散らばったガラスを端によけた。

 意を決して穴をくぐると、ガラスの破片が靴下を貫いて足の裏を刺した。

「おしっこ!おしっこ!」

 呆然と立ちつくす母を尻目に、私はトイレに駆けこんだ。


 トイレから戻ると父の姿はなかった。

 父は都合が悪くなると逃げる癖があった。

 擦過傷で血だらけになった私を見て、

「あんたは恐ろしい子だ……」

開口一番、母が言った。

『順番が違う!』

 気遣いのない母に激高した私は

「さっさと○キロン(白チンの商標名)持ってこい!」

と、すごんだ。


 母は薄い唇を引きむすんで目をしばたたかせた。

 パニックの渦中にいる母には、私の存在など、まるで見えていなかった。

 母は父に殴られるのが嫌で私を売ったのだ。

 母には我が子を命がけで守ろうとする遺伝子が組みこまれていないのだ。

 母は上の空で私の体に絆創膏を貼った。

 私は室内に散らばったガラスを箒と塵取りでかたづけた。

 窓にはレジャーシートとガムテープで応急処置をした。


 どこをほっつき歩いていたのか、遅くに戻った父は、そのまま自室に籠ってしまった。

 父はどうしようもなく弱いのだ。

 だが、その日から折檻はぴたりとやんだ。

 同時に私の同級生いじめも、ぴたりとやんだ。

 私は身を呈して抗議することで父に勝利した。

 狂気を狂気で制したのだ。

 情動は父親から継承する割合が高いそうだ。

 学説に漏れず、私は父によく似ている。

 だが、判断力や抑制心は父の格上だと思う。

 だから、めったなことでは、父のような狂気の安売りはしないだろう。







 


 


 

 





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