第5話 インナーチャイルド

 私が小学校に上がったころのことだ。

 すでに別居していた祖母が左前腕を骨折して入院した。

 退院の折り、家族総出で迎えにいったが、祖母はまだ、ギプスをはめていた。

 一人暮らしでは何かと不便だろうと、しばらく我が家で預かることになった。

「すまないねぇ……すまないねぇ……」

 そうくり返す祖母がうっとうしく、私には偽善者に見えた。

 その日の夕餉のことだ。

 昔話を持ちだした祖母が、さっそく父の地雷を踏んだ。

「お前は俺がよその畑から野菜を盗んで帰ったって、澄ました顔して受けとったじゃないか!」

 戦時下、配給制度で食卓が乏しかった時分の話だ。

「親父が戦っている最中、目の悪いパン屋の男と浮気してたじゃないか!自分だけ綺麗なふりしやがって!俺は何もかも知ってたんだぞ!」

 そう叫ぶと、父は自分の椀に残った味噌汁を祖母目がけて投げつけた。

 椀は祖母の腹に命中した。

 ギプスと祖母のお気に入りの藤色のカーディガンに、ワカメと豆麹の柄がついた。

「まぁ、母さんになんてことを……」

 祖母は他人事のようにつぶやいた。

 それは第三者の私が聞いていても苛だつほど、おっとりしていた。

「誰が母さんだって!?」

 父は夕餉を中途にして立ちあがると、自室に消えてしまった。

 母と私で祖母のギプスやカーディガンを拭いていると、上着をつかんだ父が勢いよく家を出ていった。

 その晩、それきり父は戻らなかった。

 翌朝、祖母は一人暮らしのアパートに帰った。


 父は祖母を憎んでいた。

 だが、それ以上に祖母を愛していた。

 乞うても乞うても獲得できない祖母の、愛。

「バカなんだから!」

「お兄ちゃんなんだから!」

と当然のように我慢を強いられた日々……。

「俺の背が伸びなかったのは、子どものころじゃが芋の茹で汁ばかり飲まされてたからだ!」

 父は深酒するたび、私に恨み節を聞かせたのだ。

 食事は優先的に弟二人にまわされた。

 せめて、祖母から謝意があったなら……父の日々の我慢も報われていただろう。

 祖母には情緒における欠落があった。

 私はずっと、それを感じていた。

 戦時下、細腕で食べざかりの息子三人を育てるのは、さぞかし不安だっただろう。

 一人の女として、誰かにすがりたかっただろう。

 だが、それを大人になった父が理解できていたとしても、父の心に眠る幼き父が、祖母を許すことはけしてなかった。

 

 

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