9.「鍋にされて、食われるっ」


 死にたい、死にたい、死にたい、死にたい。

 消えたい、消えたい、消えたい、消えたい。


 ――あの声を、聴かれた。

 ……しかも、パンツまで見られた。


 もう、ダメ。何も考えられない、何も、考えたくない。

 私……、五奏杏の脳が、全神経に『とにかく逃げろ』と緊急指令を発している。


 走る、走る、駆ける、駆ける。

 階段を駆け下りて、廊下を抜けて、昇降口まで一直線。


 誰もいない世界へ、一刻も早くとびこみたかった。

 自分の部屋で、ふとんにくるまって目を瞑りたかった。

 この世界に溢れる、あらゆる音を、聴いてなんかいられなくて――


「――ゴソーッ! 待ちやがれぇッ!」


 ――えっ……?

 耳を、疑った。

 少しだけ後ろを向いて……、ギョッとなる。


 学園祭の小道具係を、一緒にやると言ってくれた彼。

 学校の屋上に、私を呼び出した彼。

 ……あの声を聴いてしまい、あまつさえ私のパンツまで見てしまった彼。


 ――真手雷太くんが、鬼の形相で私のコトを追ってきているではないか。

 ……こ、殺される……、鍋にされて、食われる……ッ!


 私がその時、およそ正常な思考を保っていられなかったのは、説明するまでもなく――


 昇降口に辿りついた私は、しかし革靴に履き替えている余裕などないと判断し、上履きのままグラウンドに飛び出した。

 練習中のサッカー部の間を無理やり抜けて、ひたすらに、走った。途中で何人かの生徒にぶつかったりもしたが、倒れそうになった全身をギリギリの体勢で保ちながら、とにかく、走った。

 学校の外へ飛び出して、河川敷の直路。再びチラリと後ろに目を向けて――


 ……えっ、まだ、追ってきてるのッ!?

 しかも、さっきよりも距離を詰められている。


 再び前を向き、歯をくいしばり、何も考えずに、駆ける。


「……ゴソォォォォォォォォォッ!」


 ――悪魔の使者が、私を地獄へと招待する声を張り上げている。

 ……し――、死にたく、ないッ!?


 グラリ。

 ――ふいに、視界が歪んだ。……普段運動なんて、てんでしない私、たぶん体力の限界がきたんだ。足がもつれ、私は露骨にスピードダウンしてしまった。転ばないように体勢を保つのが精いっぱいで、次の瞬間――


 ガシッ――、と誰かが私の肩を掴む。

 ……終わった。振り返る必要も、ないと思った。

 そのまま私は、すべてを投げ出すように、全身から力を抜いた。


「――オイッ、ゴソーッ……」


 私の名前を呼ぶ声が聴こえて、私の肩が、身体ごとぐいっと引っ張られる。

 視界いっぱいに広がったのは、悪魔の使者……、もとい、

 真手雷太くんの、鬼の形相で。


 重力を失った私の身体が、背中から倒れる。……私の肩を掴んでいた雷太くんもろとも。

 そのままゴロゴロと、もつれこむように、なだれこむように、

 二人の高校生が、河川敷の野原を仲良く転がっていった。



 ――何が、どうなったのだろうか。

 とりあえず全身が気だるく、あちこちが痛い。

 湿った草の感触がヒンヤリと冷たく、視界の端から端まで、無限の青空が広がっている。


「……イテテテテテ――」


 誰かの呻き声が聴こえて、

 視界の端に映りこんだのは、ニワトリみたいな赤いトサカ頭。

 私のすぐ傍、三十センチメートルほど離れた位置。大の字になって寝転んでいた雷太くんがムクリと起き上がる。

 釣られるように、私も上半身を起こして――


「……なんで……、追って……、来るのッ――」


 塞がっていたはずの私の口から、勝手に言葉がこぼれ落ちた。


「……お前が、逃げるからだろうが」


 雷太くんが、チラリとこちらに顔を向ける。不機嫌そうに、目を細めながら。


「っていうかゴソー、お前、喋れるんじゃねぇか」


 ふいに立ち上がった彼が、パンパンッ――と、ぶっきらぼうに制服をはたいて、彼の全身からハラハラと雑草が舞い落ちる。

 私はというと、両膝を両腕でギュっと抱え込んで、

ただ、ジッ――、と。

 アトランダムなうねりで、濁った川が流れゆく様を、ただ、見つめていて。


「私……、自分の声、嫌いだから――」

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