case4:手も足も出ない(表)
憧れの女性を奪われた。
結構ショック。かなりショック。つか、そうなるだろうと思っていたけど一縷の望みをつないでいた俺としては寝込みそう。
「鳴宮くん? 聞いている?」
「へ。はいっ。あー。あははー。すみません聞いていなかった」
適当に笑ってごまかそうとする俺に、これまたすごいにらみをきかせてくる。
一見すると本当に怖いんだよ。いわゆる『お局様』的なところがあるし、仕事に厳しいし。滅多に笑わないし。
それでもふとした仕草とか、ちょっとはにかみながら笑うところとか、可愛いんだよね。
ああでも。
そう。
でも俺にはまったく望みはなかったのだ。
そんなこと、誰もいないオフィスで今にもキスしそうな場面を見ずとも、いいやそれより首筋の薄い情事のあとを確認しなくとも、わかっていたさ。
課長と矢嶋さんが好きあっていることぐらい。
好きな人の視線や意識がどこに向かっているのか、やっぱり俺も反応してその意識の矛先に目を向けてしまう。
わかるのにそう時間はかからなかった。
課長が来ると矢嶋さんの空気の色が少しだけ変わる。
聞けば課長とは同期で結構仲がいいという。
でも二人の間にほんの一瞬だけ流れる空気は単なる同期の域を超えているものがあった。
そりゃ勝負ありってーなもんだよ。
だって俺が入社する前からだもん。
課長だもん。
最初から負け試合だよ。
手も足もでねーよ。
それでもやっぱり好きって気持ちは抑えきれないものだ。
だから何かにつけては矢嶋さんのもとを訪れていたっていうのに、なぁんにも気がつかないときたもんだ。 仕事ではこれ以上ないくらいの嗅覚を持って対応するくせに、なんだよ、私生活はまったく駄目かよ。
なぁんか悔しい。
つか、つまらん。
このまま引き下がっていいのか俺。
そんなふうに自問自答する。
「とにかくこれでは受け付けられないわ。もう一度出直していらっしゃいな」
わずかに俯いたとき、首筋の痕がばっちり目に入って、ちょっとどころかかなりむかついた。
それはそのまま態度に出る。
「矢嶋さん」
俺はそっと耳打ちする。
矢嶋さんは何事かと眉を寄せる。
ああ、この眉の寄せ方も俺好みなのになぁ。
「見えてます」
「……痕とかいうならもう指摘されたから却下」
うわ。
どうせ先ほどの課長とのやり取りの中でそんな会話があったに決まっている。
しかしなぁ。こういうことを平然と言い切ってしまう度胸のよさ。
ああ。もっと早く出会えていれば。もっと早く行動していれば。
そう思ってしまう。
たとえそれが無駄な足掻きだとしても、行動していれば少しは気持ちが違っていただろうか。
そんな焦燥を押し隠してニコニコと笑いながら、さらに耳元に口を寄せた。
「いえ。ババシャツが」
そういうと、さすがに矢嶋さんも動揺した。
きっといろんな意味で動揺したんだろうなぁ。
「ほら、袖口。ちょっとだけ出ているしー」
そういって袖辺りを指差す俺を憎々しげに見つめている。
ほんのり顔が赤いのは指摘されたババシャツのせいか、それとも自らばらしてしまった情事の痕のせいか。 でも。何にしろ。俺はこうしてささやかなからかいをもって、自分の不平を発散させてみる。
このくらい許され──。
「な・る・み・や」
痛いくらい耳を引っ張られて、俺の思考は中断された。
うー。この声。振り返らずともわかる。
「か、ちょー」
くそぅ。さっき出て行ったはずじゃ。
「いつまで油を売っている。会議の準備ができていないぞ」
そういったきり、矢嶋さんに目を向けることもなく俺を引っ張りだす。
矢嶋さんはというと、そんな俺を見てひらひらと優雅に手を振っている。
「か、ちょ。いたいいたいいたい!!!」
しかし俺の言葉なんてまったく却下。これっぽっちも却下。
「まったくお前は」
廊下をある程度進んだところで課長はようやく手を離した。
「いーたーいー」
かがみこんで耳を押さえる俺を課長は相変わらずの無表情で見下ろしていた。
が。突然やたらと挑戦的な笑みに変わった。
「ちょっかい出すな莫迦者」
それが何を意味しているのかわからないほど愚かではない。
当の本人は気づかずとも、相手は気がついているのか。そうだよな。なんせ課長も矢嶋さんのこと愛しちゃってるからなぁ。
「えー。このくらいいいじゃないすか」
おちゃらける俺に課長はあくまでも余裕だ。
うーむ。この余裕、めちゃくちゃはらたつなぁ。くそぅ。これが選ばれたものの余裕ってやつか。そうなのか。
「それともなんですか? 俺ごときにちょっかい出されたくらいで壊れるような脆いものなんですか?」
幾分とげのある、八つ当たり的な発言に対して課長は大きく溜息をついた。
「お前も気がついていると思うが。矢嶋は手ごわいぞ。あの鈍感ぷりといったら並じゃないからな」
あ。それは同意。
「だから」
課長は俺の襟元を掴んでしっかりと立たせた。
「諦めろ。あの鈍感な女を相手にして耐えられるのは俺くらいしかいない」
しっかりと牽制されて俺は不意打ちを打たれた気分に陥った。
そんな俺のケツを蹴り上げて営業部のほうへと促す。
「ほらはよいけ。下っ端が会議机を動かさずして誰が動かす」
ああ本当。かなわないなぁこの人たちには。
そんなふうに諦めの境地で、俺は力仕事へと向かった。
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