case2 執着(裏)

「お前はそれで本当にいいのか?」

 そう聞いた俺を慎一はおだやかに、ゆっくりと見つめた。

 こいつがこんな寂しげな顔をするのを俺はよく目にしていたと思う。今にしてみれば、だが。

「いいって……何が?」

「結婚」

 俺の即答に何をいきなり、と言ったふうに慎一は笑う。余裕のその態度が気に入らなかった。

 ──あなただけが、頼りなの

 そう言った皐月の言葉が頭の中を駆け巡る。

 何故俺を頼りにするんだと怒りも湧いたが、皐月の話を聞いたあとではどうにも仕様がない。

 俺は皐月の話に困惑し、ひどく動揺した。

 だが聞いてしまったからには、聞かなかったことも、無視することもできない。できることはたった一つ。

 慎一から本心を聞き出すこと。

「結婚することで裕見子が満足するならば、いいだろ? それで」

 慎一の言葉は投げやりではないが、あまりに淡々としていて俺を苛立たせる。

 確かに慎一の運転する車に乗っていての事故だった。それによって裕見子は傷を負った。でもそれは対向車のせいであって、慎一には過失はない。

「そこにお前の意志はないのか?」

「裕見子にたいしての責任は」

「責任とかじゃねぇよ! お前の気持ちってんだろ!」

 俺の苛立ちに慎一は口を閉ざし、目を丸くしていた。

「哲也? 何をそう怒っているんだ?」

 何を言われてもこいつは全く変わらない。

 皐月。本当に俺だけが頼りなのか? お前の話は本当なのか? こういう反応をされると自信がなくなる。

「義理とか責任ではなくて、お前の気持ちのことを言っている」

 どう言えば慎一が本心を口にするのか、俺には具体的対策が思いつかなかった。慎一は俺と違って頭もいい。世渡りもうまい。思えば学生時代からこいつが激情に流される姿なんてお目にかかったことがない。

 皆の感情を受け止めることはうまいくせに、自分の感情を表現することは拒否する。

「俺は、感情ってモノが希薄なんだ」

 慎一は笑う。いつものこの笑みが俺の心のどこかに引っかかる。

「好きとか嫌いとか。多分俺にはあまり重要なことじゃないんだ。上下関係とか人間関係とか、そういうものもあまり執着がないし、だから感情の起伏もない。ある意味俺は人間として欠陥品なんだよ」

 感情の起伏がない。その点は認めよう。でもそれはないというより、あえて現さないということではないのか?

「だったら。俺みたいなモノは、俺を一番欲している者に差し出したほうが、少しは利用価値があると思わないか?」

 ──こいつは、知っている。裕見子が慎一を手に入れるために犠牲にしたもの。裕見子の激情のすべて。自分のランナーとしての生命をなげうっても慎一を手に入れようとしたことを。

 全てを知って、受け入れたのか。

「本当に、お前は何にも執着をもてなかったのか? 今まで一度も?」

 生も死も。己も他人も。何もかも。慎一にとってはどうでもいいことなのか?

 しかし俺の問いに対し、ほんの一瞬だけ目を細めた姿を見逃しはしなかった。

 ──あたしは、知っているの

 皐月の声が頭の中で巡る。

 一週間前に皐月とあった。皐月から会いたいと言ってきた。

 皐月は落ち着いていた。もっと動揺しているかと思ったが。慎一と別れるときはあれほど泣き叫んでいたくせに。

 その代わり、随分と迫力のある目をしていた。なにか、決意を秘めたような目だった。

 そして開口一番、こう告げた。

 ──慎一を取り戻して

 取り戻す。

 それがいいことなのか悪いことなのかわからない。

 そもそも取り戻すも何もあったもんじゃない。

 そうして一週間前のことを反芻しているときも慎一から目をそらすことはなかった。

「正直に言えよ。お前は執着という言葉を実感したことが本当にないのか。何かを強烈に望んだことはなかったのか」

「……何でそんなことをきくんだ?」

 慎一は俺の質問に答えることなく、質問で返してくる。

「皐月が、俺に頼むんだ」

 突然皐月の名前を出されて慎一の表情は曇る。

 裕見子の傍にいたいと皐月に別れを切り出して、二人はそれ以来あっていないはずだ。

「お前を取り戻してくれって」

 慎一はわずかに困惑した顔をした。

 別れを切り出した当初は感情をあらわにしたもの、それでも慎一の説得に納得して別れてくれたものと思っていたのだろう。

 皐月は昔から聡明で思慮深いと認識されていたのだから。

 だが、皐月から慎一の一連の話を聞いた時、その印象は間違いだったのではと思わずにはいられなかった。

 人の本質なんて結局はわからないものだ。

 裕見子が抱えていた、慎一に対する狂おしいほどの執着だって気が付かなかったし、この時期、この場面で、よりにもよって慎一を裕見子から奪おうとしている皐月の非情さにも気が付かなった。

 そして慎一が長い間抱えていただろう感情にも気が付かなった。

 だがそれらの本質を抱えた友人たちを責める資格は俺にはない。

 皐月の姦計に乗り、加担すると決めた俺も、皐月同様、非道なんだろう。

「俺はもう、皐月と以前のような形に戻ることはできない。皐月を選ぶことはない」

 はっきりと口にする慎一の言葉には皐月に対する断固とした拒否が含まれていた。

 しかし俺は慎一のその言葉を無視して続けた。逃がさないように、片方の腕を掴んで目をあわす。

 ああ、わかっていないな。

 皐月は慎一との関係を修復したいと思っているわけじゃない。むしろ、完全に関係を断とうとしているのに。

 しかし俺はそのことを伝えることなく、さらにつかむ腕に力を籠める。

「──皐月を、ではなくて」

 答えるまで逃がすまいと、視線をそらさず再度問う。

「お前は何かを強烈に望んだことはないのか」

 俺の頑固な様子を訝しがっているのはわかる。だが、この答えを聞かないと俺は次に進めない。皐月に本当の意味で協力ができない。

 答えなければ俺が引かないだろうと理解したのか、力の入っていた慎一の肩がすっと抜けるのがわかった。

「──あるよ。たった一度だけ。あまりに強烈過ぎて、その一瞬で俺の執着心はなくなってしまった。もう、あんな思いをすることはないだろうな」

 ──あたしは、みたの。慎一の本当の気持ちを

 皐月の言葉が、甦る。一言一句間違えることなく、鮮明に。

 俺はゆっくりと慎一の左手を掴み、俺の心臓へと当てる。

 ──あのとき慎一は

「『戻って来い。もう、多くは望まないから。俺のこの思いを差し出すから。だからどうか、戻してくれ。奪わないでくれ』」

 皐月から聞いたそのままを、俺は口にしていた。

 慎一は目を見張る。それから手を心臓から離そうともがいた。

 初めて、こいつが動揺したところを見た。

「な、にを」

 早いのは握った慎一の脈動か、俺の心臓か。

 皐月が俺を訪ねてきてから一週間。

 俺は考えた。

 よく、考えた。

 皐月が言ったことをにわかには信じられなかった。

 皐月は、事故現場での状況を淡々と語った。俺が、半分死んでいたあのときに。

 ──あんな慎一、見たことがなかった。必死の形相で、泣きながら、哲也の心肺蘇生をしていた。そのとき言っていたの。お願いだから、こいつを帰してくださいって。俺を見て欲しいとか、傍にいて欲しいとかそんなことは望まない。全部捨てるから。この気持ちを全部。だからこいつを返してくれって

「何を莫迦なことを言っているんだ?」

 さすがは慎一で、すぐさま冷静さを取り戻して俺へと切り返す。

 俺は莫迦だが、莫迦なりに考えたんだよ。

 俺にとって慎一はいったい何なのか。

 考えるたびに、肋骨がうずく。

 あの事故で行なわれた心肺蘇生は力が若干入りすぎていたらしく、肋骨にひびが入っていた。

 当然今では完治している。

 でもあのときのことを思い出すと、その傷がうずくような錯覚に陥る。

 目を覚ました俺の瞳に真っ先に入ってきたのは、汗だくになって、今にも泣き出しそうな慎一の顔。耳に入るのは震える声。触れる指先は氷のように冷たかった。

 あんな慎一を見たことはなかった。

 慎一がいつから俺にそんな感情を持っていたかはわからない。でも、少なくとも、あのときから俺の中でも微妙な変化があったことは間違いない。

 だから。皐月が俺へと全てを告白してきたときでさえ、それを否定する気持ちは全く湧かなかった。

 ──俺に、どうしろと

 ──思うままにして。だって哲也はもうわかっているでしょう?

 ああ。わかっている。自分の気持ちも。なにもかも。

 ただ自信がなかっただけだ。

 こうして、心臓に慎一の手があたっているだけで、傷の疼きが和らいでいく。

 距離を、縮めたかったのだ。

 俺の望む形に。慎一の望む形に。

「ここに残した、お前の執着心は返すから」

 慎一は困惑している。状況についていけないようだった。

 俺はそのまま一歩近づく。

 鼻先に慎一の顔がある。

「俺を求めろ。俺がお前を求めるのと同じくらいの強さで」

 鐘が、鳴った。

 多分、慎一の前に式をあげることになっていたカップルのものだ。

 次は慎一たちの番だった。

「──この選択がどういう意味を持っているのかわかっているんだろうな」

 ようやく発せられた慎一の声は掠れていた。それが緊張のせいなのか、高揚しているせいなのか、いまいち判断がつかなかった。

 俺は自信満々に言い切った。

「まあな。莫迦は莫迦なりに死ぬほど考えた結果だ。──後悔はしないさ」


                                         

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