case2 執着(表)


 とても、静かな気持ちだった。

 不思議と憎悪はわかなかった。

 あの事故以来、あたしに向ける彼女の笑みが勝ち誇った色を湛えていたことは事実だ。そしてその笑みを目にするたびに凄まじい憎悪に襲われた。

 だからあえて連絡を絶ち、一切のかかわりを持たないようにしていた。

 これ以上自分が醜くなることが恐かったから。

「きてくれないかと思ったわ」

 そういいながら無理に立とうとする裕見子を制止する。

「そのままでいいわ」

 あたしの制止に素直に従い、裕見子は再び腰を下ろした。

 動きが妙なくらいにぎこちないのは何も着慣れないドレスのせいだけではない。

 四年前の事故で、裕見子の左足は文字通り粉々に砕かれてしまった。

 四年という月日を経て、ゆっくりながらも歩けるようになったことは不幸中の幸いというべきなのかもしれない。

 不幸中の幸い?

 いいえ。裕見子にとっては不幸ではなかった。

 たとえそれが将来を有望視されていたマラソンランナーとしての未来を粉々に打ち砕くことであっても。

「きてくれてありがとう。私、皐月にはどうしてもきてもらいたかったの」

 笑顔はそのままだ。

「だって皐月とこのままなんて」

「──私は二人を祝福しにきたわけじゃないわ」

 聞きようによってはきつい言葉だったかもしれないが、あたしは実に穏やかに念押しする。

 そう。一生祝福はできないだろう。裕見子の夫となる人は事故直前まであたしの彼だったのだから。

 あたしの言葉に裕見子は苦笑する。諦めの悪い女と思っているのかもしれない。

「まだ、あたしのことを恨んでいる?」

 下から覗き込んできた裕見子に対し、あたしは頭を横にふった。

 これは事実。もう、恨んでいない。恨む必要もない。

「ただ。最後に確認したかったの」

 見下ろすあたしから視線をそらすことなく裕見子は見上げている。穏やかで、そしてどこか勝ち誇った色が見えることは以前と変わりない。

「裕見子。あなた、自分の足を砕いてまで慎一を手に入れたかったの?」

 その質問に裕見子は焦るでもなく、動揺するでもなく、いつにもまして力強い視線を投げつける。

「ええ。どんなことをしてもね」

 予想通りの答えに、あたしはただ裕見子を見下ろすだけだった。



 4年まえにあたしたちを襲った事故は、みんなの人生を変えた。

 あたしと慎一と裕見子と哲也の4人で初詣に行った帰り道。対向車が車線を乗り越えて真正面からぶつかってきた。

 覚えているのは真正面から受けた対向車のヘッドライト。

 強い衝撃。

 意識が遠のき、次に記憶にあるのは哲也に蘇生術を施している慎一の姿。

 それから横転している車。

 一人崖下に投げ出された裕見子。

 あの事故の後。心肺蘇生のおかげで哲也は一命を取り留めた。意外にも回復は早く、今では事故の名残はない。

 あたしは左肩の脱臼のみ。

 慎一にいたっては打撲程度で済んでいた。

 でも裕見子はそうはいかなかった。左大腿部の粉砕骨折。靭帯の断裂。陸上選手としてオリンピックも夢ではないといわれていた裕見子の人生は一変した。

 事故自体は相手側の完全過失で片付けられた。慎一には何の責任もないはず。

 でも慎一はそうは思っていなかった。

 自分の運転で人生が狂ってしまった裕見子の支えになるために、彼は今まで自分が培ってきたもの、自分の時間、人間関係、総てをなげうって裕見子にささげた。

 彼はそういう人だった。人一倍真っ直ぐで、情熱的で、責任感が強かった。

 裕見子を毎日見舞い、リハビリにも熱心に付き合った。

 そんな中、ふとあたしは気がついた。慎一に支えられ、身体を預ける一瞬、あたしに投げる裕見子の勝ち誇った笑みに。

 それはあたしと慎一の間がぎくしゃくとするに従って度を増していく。

 慎一はあの事故のあと選択したのだ。

 裕見子を一生支えていく、と。

 それは同時にあたしとの別れを意味していた。

「ごめん。皐月」

 それが彼の最後の言葉だった。



「中学生のころから打ち込んできた陸上の選手生命を絶ったとしても?」

 再度問うあたしに裕見子は自信を持って言葉を返す。

「そんなもの。あたしにとっては重要でもなんでもないわ」

 艶やかに笑う裕見子は美しかった。

 以前よりふっくらとして、化粧も上手くなった。陸上競技に明け暮れていたころはそれほど着飾ることもなかったが、今では見違えるほどだ。

 確かに花嫁は美しいものだ。でも裕見子のそれは花嫁特有の美しさや、着飾ることになれた女特有のものではない。

 愛する者を手に入れた、自信に裏打ちされた美しさ。

「ずっと慎一のことが好きだった。どうにかして手に入れたいと思っていた。好きで好きで、気が狂いそうだった。彼が手に入れられるのなら、あたしはどんなことでもした。──それこそ皐月、あなたを殺してでも手に入れたかった」

 さもないことのように裕見子は続ける。

 確かに、あたしは裕見子の気持ちに気がついていた。慎一を思う気持ち。あたしに対する殺意。それらにかかわるすべての感情を。

「だからあの事故はチャンスだと思ったわ」

「……自分で自分の骨を砕くとき、躊躇はしなかったの?」

 何でそんな質問をするのか、といった顔で裕見子は見つめる。

「それで慎一が手に入るのなら。あのたとえようもない痛みも、あたしにとっては喜びだったわ」

 まるで目の前で行われているように思い浮かぶ。

 崖下で救助を待っている間、石を振りかざして自分の左足を壊す裕見子の姿。

 裕見子はあの事故で瞬時に決断し、決行したわけだ。

 聞きようによってはぞっとするような行為を思い出しても、あたしの感情は揺さぶられなかった。

 あの時感じた畏怖はもうない。

 勝ち誇ったかのように告げる裕見子を黙って見つめていただけだ。

 それを裕見子は無言の抗議ととらえたのだろうか?

 がらりと顔つきが変わる。

「だって皐月がほしかったのは『完璧な彼氏』だったんでしょ? 常に皆の中心にいて、成績もよくて、優しくて。一分の隙もないパーフェクトな彼氏。そんな男なら慎一じゃなくても、誰でもよかった」

 あたしは黙ったまま。

「そんな人に奪われるなんて、耐えられなかった。嫌だった」

 多分、他の人間ならば裕見子の凄まじい迫力にのまれていたかもしれない。

 でもあたしは、すでに覚悟していた。裕見子の慎一に対する思いは狂気にも近いものだと。だから今までため込んでいただろう感情の矛先を向けられるとき、この程度の言葉を投げられることなんて承知していた。

 そして実際にそういう事実を突きつけられても動揺はしなかった。

 ただ確認ができてよかった。それだけ。

 互いの間に流れていた緊迫した雰囲気を打破したのはあたしのほうだった。

「そう。よく、わかったわ」

「……それは、あたしと慎一の結婚を認めたということ?」

 踵を返して立ち去ろうとしたあたしをそんな言葉で呼び止める。

 あたしはゆっくりと振り返る。

 あの事故がきっかけで二人に会わなくなって以来、あたしははじめて裕見子へ笑顔を向けた。

 穏やかに笑えたと思う。

 そしてはっきりと伝える。

「あたしが認めるとか認めないとかじゃないでしょ? 問題なのはあたしの気持ちじゃない。慎一の気持ち」

 あたしの答えが予想の範疇外だったのか、裕見子は怪訝な顔をする。

「意味が、わからないわ」

 わからないなら、わからないままでいい。

 わからないなら、賽を投げるだけだ。

 あたしは笑顔のままで、ノブに手をかけた。

「最後まで、きちんと見届けるわ」

 そういい残してあたしは控え室を立ち去った。

 ドアを閉めて、目を閉じる。

 廊下には誰もいない。

 静かだった。

 そう。

 あたしは最後まできちんと見届けるためにここに来た。

 だから確かめたかった。

 裕見子の気持ちを。

 そして予想していたとおりの慎一への狂おしいほどの恋情。

 裕見子が指摘したとおりあたしにはあんな強烈な欲求はなかった。裕見子のように、慎一を求めてはいなかった。気持ちに重さがあるとしたらあたしは裕見子に間違いなく負けていたのだろう。

 でも裕見子はわかっていない。

 そして肝心なことを忘れている。

 慎一の本当の気持ちを。

 慎一が本当は何を望んでいたのか。奥の奥に本心を隠して表に現さないのは、慎一の特技。癖。そして防衛。

 裕見子は気づいているだろうか?

 ゆっくりと目を開ける。

 付き合っていたときには慎一の心の奥まで踏み込んでいくことができなかった。

 でも。今は違う。

 今ならば冷静に慎一の心に向き合うことができる。

 そしてそうすることで裕見子から慎一を奪いとる術を得た。

 賽を投げるのはあたし。

 投げて、そしてことの最後までを見届ける。

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