case1 先輩と後輩(裏)


 弘田愛佳は世間一般がイメージする、女という形からかけ離れた人だった。

 はじめて会ったのは入社間もなく、研修を終えて指導教官を紹介されたときだった。

 名前からイメージしていたその姿は、初対面であえなく玉砕された。

 美人というわけでもなく、痩せすぎでも太りすぎでもなく、ごく一般的な普通の女性。黙ってたっていればそうなるだろう。

 でも弘田さんと直に接して彼女を普通の女性といえる人がいるとは思えない。

 そのくらい弘田さんは凄まじい人だった。

 化粧は最低限、口調は荒い、タバコは次から次へと勢いで吸いまくり、向ける視線の鋭さは並みのもんじゃない。どんなに言いにくいことでもストレートに表現する。しかも万人平等に。この人を前にしたら客だの上司だの部下だの掃除のおばさんだのそんなことはまったく意味を成さなくなる。

 それどころか男と女という性別さえ意味を成さなくなるんじゃないだろうか。

「そんなに気になるなら、あたしが試してあげようか?」

 彼女のことを相談した俺に、弘田さんはそういってにやりと笑った。

 それが一夜のお誘いだと気がつくのに数秒かかった。

 気がついて、動揺し、自分の顔がかなり赤くなっているだろうと遠くで思っていた。

 まさかこの人からそんなお誘いが来るとは思わなかったのだ。

 そもそも。そんな艶めいた誘いでさえ、この人は女としての色香を押し出すことなく、まるでレポートの添削をしてやろうかといった雰囲気で誘ってきた。

 いや。まず本気で誘うつもりなんて全くないに決まっている。単に俺をからかい、なぶっているだけのこと。

 正直なところ女性として意識したことなど皆無だ。今だってそういえば弘田さんだって女性なのだからして、そういうこともありえるんだと気がついたための動揺だった。

 これが弘田さんじゃなかったら。

 またはもっと媚びた態度ならば。

 俺だって男だし、ふらふらーっと二時間休憩コースに突入することだってありえたと思う。

 そりゃ彼女はいるけど、でも誘われればやっぱり頭をよぎるものだ。

 しかし弘田さんに対しては男女の関係をもとうなんて気持ちは生まれなかった。

 女性としての魅力がないから、ということではないと思う。媚びた態度はとらないだけで弘田さんはやっぱり女性である。化粧っ気はなくても清潔感はあるし、趣味もいい。女性であることを捨てているわけではない。

 理由はなんとなくわかっている。

 弘田さんの誘いは男女のものではなくて、食うか食われるかのような色合いがあるからだ。

 さながら捕食者と被食者。

 男女のつながりはある程度対等だ。でも弘田さんの誘いは完全な支配を思い起こさせる。

 多分弘田さん自身はそんなこと、これっぽっちも思っていないんだろう。

 でも本人にそのつもりはなくても、この強烈な個性に支配されることは目に見えている。特に俺みたいなのは引きずられるに決まっている。つか、今でも充分弘田さんのペースに翻弄されているし。

 けれど。

 そんな自覚をしておきながら一方で弘田さんの誘いに乗ってみたいと思っている自分がいることも事実だ。

 相手は一生適わないかもしれないほどの人で、どうせこのまま行けば弘田さんより優位な立場に立つことなんて一度としてないだろう。

 だって全然隙ないし、頭の回転だって俺より速いし、口だって仕事の能力だってまったく敵わない。

 でも一歩踏み込んで、弘田さんの懐に入ってしまえば、もしかしたら弘田さんに敵うなにかが見つかるかもしれない。

 弘田さんを屈服させる何かを。

 つまり、俺は弘田さんが屈する姿を一度でいいからお目にかかってみたいらしい。

 こんなこと同期に言ったら距離を置かれるかもしれない。弘田さんを敵に回そうなんて莫迦は少なくても周囲には見当たらない。

 そもそも俺にそんな才覚はないし、それをするならば自分も大きな犠牲を払うことはなんとなく予想できるのでしない。

 そんな度胸は俺にはない。

 はずだったんだが。

 その日。弘田さんにからかい気味に誘われた日。

 俺はかなり飲みすぎたらしい。仕事の質問をし、相談をし、最後には愚痴になっていた。

 当然弘田さんがそんな俺をやさしく慰めてくれるはずもなく、酔っ払ってテーブルに突っ伏していた俺を足蹴にしておそらく一人で飲みまくっていただろうころには、意識はほとんど遠のいていた。

 大抵は俺の限界を察知し、そのままタクシーに乗り込み、俺を送り届けてくれる。

 その度に悪口雑言を繰り返されるのだ。

「お前ねぇ。たまには送られるほうじゃなくて送る側に回りなさいよ」

 タクシーから無理やり引き摺り下ろされて、アパート前の道路に放置。これがいつものパターン。

 しかし今日は寒かった。雪でも降りそうな空だった。

 このままいつもの通り、道路に放置して凍死でもされちゃ困ると思ったのか、珍しくアパートの玄関前まで運んでくれようとしたみたいだった。

「くそっ。弓崎、ちょっと起きなさい! いくらあたしでもあんたを二階のアパートまで運ぶのは無理がある! おきて足を動かせ」

 遠い意識の中で、弘田さんの怒鳴り声が響き、徐々に意識が戻ってくる。

 いまいち状況がわかっていなかったが、どうやら弘田さんに肩を借りている状態のようだった。

 酒は恐ろしい。

 いつもの判断力を鈍らせ、そして時に人を大胆にさせる。

 ──捕食者が自分の手の中にいる。

 こうしてみるとやはり女性だとか、愛しいとか、抱きたいとか、そんな感情や感想が浮かんだわけではない。

 何度も言うようだが俺は弘田さんに女性としての欲求を感じることはない。

 ただ、今の位置ならば弘田さんを組み臥して襲うこともできるなと恐れ多いことを考えていた。

 絶対的な捕食者が戸惑って屈辱をかみ締める様が一瞬でも見れるかもしれない。

 ──見たい。

 そんな莫迦な思考が巡る。

「弘田さん」

 酒でろくろく回らない思考と呂律をなんとか押さえて声を絞り出す。

「あ? 起きたならちょっとは自分で歩きなよ」

 そっけない態度に俺はにやにやと笑みを浮かべる。

「お前、その笑い、薄気味悪い」

 薄気味悪かろうがなんだろうが。

 俺は視線を弘田さんに向けて言い放つ。

「弘田さん。せっかくだから試してみますか?」

「試す? 何を」

 ああ。この人は。今日俺をからかうために発した言葉は既に遠い彼方か。

「言ったじゃないすか。『上手いかどうか、試してやろうか』って。せっかくうち、目の前だし、試してみませんかね」

 いつもの俺ならば絶対に口にしない言葉。

 その言葉に対して一瞬だけでも表情を崩せたら、俺は満足していたかもしれない。

 しかし弘田さんは至って平然としていた。

「いいけど。でも弓崎、あんた覚悟はあるんだろうね?」

 覚悟。

 覚悟って、一体何の?

 そんなの問う必要はない。

 弘田さんはわかっている。そして俺もわかっている。

 もしここで弘田さんを抱いたなら。俺は弘田さんから逃れられないだろう。

 恋ではない。愛でもない。執着でも、対抗心でもない。

 弘田愛佳に喰らいつきたい。立場を逆転し、その顔に屈辱の証が浮かぶのを見たい。女としてでもいい、仕事でもいい、なんでもいいのだ。

 弘田愛佳を手に収めたい。

 心の奥に隠していたはずの欲求が表に出てくるに違いない。

 そしてそんな弘田さんを眼にしたとして。

 俺はそれで満足するんだろうか。

 そのあとには何が残るのだろうか。 

 何が──。

 巡る思考を止めたのは弘田さんだった。

「あたしを屈服させるつもりならそれなりの覚悟を持ってもらわないと。あたしはそうそう屈しない。当然そんなことをしようとするならば、応戦するし。そもそも」

 そこで弘田さんは舌なめずりをするかのように、口角を上げて笑った。

 好戦的なそれに背筋が凍る。

「お前にはまだその力量はないよ」

 そう言い放つと、そのままアパートのドア前に俺の身体を投げ捨てた。

 見下ろす弘田さんの姿は神々しくさえ感じた。

 そうだ。俺はまだこの人のだめだめ後輩でしかない。

「……精進します」

 そう返すだけで精一杯だった。

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