第八章 病院

 どのくらい眠っていただろう。目が覚めるとぴっぴはベッドにいた。真っ白な何もない空間。むっくり起き上がると腰に力が入らない。

(これはわるいゆめです。はやくここからにげださなくちゃ。)

 ごろりと床に転げ落ちよちよち歩きで背中に嫌な汗をかきながらドアに向う。もたもたと病衣を引きずりドアまで辿り着くと

「…ない」

 あるはずのドアノブがない。内側から開けられない構造になっている。ぴっぴは自分に起こった事が受け入れられず、その場に座りわんわん泣いた。

(こんなことなら、アカデミックシティにいきたいなどとおもわなければよかった。)

 そうして泣き疲れると再び眠りについた。次に目を開くと、聴診器をつけた白衣の医師と、薄桃色の制服を着た二人の看護士が立っていた。ぴっぴの目は腫れ上がり、いつも以上に景色は滲んで見える。

「ぴっぴさん、気分はどうですか。」

 優しい落ち着いた声である。

「ぴっぴはどこもわるありません。はやくここからだしてください。」

 医師は苦笑を浮かべると、看護士からカルテの挟まったバインダを受け取りベッドの空いた所に腰掛けた。

「ぴっぴさん、異常がなければすぐにでも出られますよ。その前に幾つか確認させてください。」

 すぐ出られると聞いて少し希望を抱く。

「あなたは現在おいくつですか。」

 ぴっぴはみればわかるではないかとふてくされたが、ここから早く出る為にはと素直に答えた。

「よんさいです。」

 医師は天井を見上げると気持ちを落ち着け、慎重な態度でぴっぴの目の前でバインダを裏返して見せる。そこにはカルテと共にぴっぴの住民基本台帳が挟まっていた。しかしすぐに何かに気づいた。

「ああ、そうか、あなたは目が見えないのでしたね。」

ぴっぴはむっとして質問を跳ね返す。

「ぴっぴのめはみえてます!」

 医師は困惑する。

「ではぴっぴさん、あなたの目が見えているという事を信じてお話しします。ちょっと立ってみる事はできますか。」

 ぴっぴは突然立てと言われてドキッとする。

(なぜたつの?)

 嫌な予感がした。背の低い看護士が優しく手を差し伸べる。

「さぁ、私の手に掴まってください。」

 看護士の表情には少しの悪意も感じられない。恐る恐る右手で看護士の手を握り、左手をベッドにつくと柔らかいベッドに従って沈み込む。緊張から自然と全身に力が入る。医師は尚も穏やかな口調でぴっぴに話し続ける。

「ご自分の目線の先をよく、見ていてくださいね。」

 裸足を床につけると、看護士の手をぐっと握って立ち上がる。足下から顔を上げると座っている医師の聴診器が見える。

医師の顔


ぴっぴの動きに併せて目の前の看護士はゆっくり立ち上がる。


胸ポケットのボールペン

首の金色ネックレス

ふくよかな丸い顎



医師の視線がぴっぴに併せて上昇して行く。



健康的な色のリップクリーム

少し濃いめのオレンジチーク

切れ長で下がり気味な瞳茶色いペンシルで描かれた右眉

揃った前髪

看護帽子

「たちました。」

 医師はカルテに書き物をしながら答える。

「今、あなたの目線はどこにありますか。」

 手を握ってくれている看護士の美しい瞳がぴっぴを見つめている。ぴっぴは震える声で答えた。

「…おんなのひとのぼうしです。」

 医師はボールペンを机に置くとぴっぴの顔を上目使いでギロリと睨み、検査結果のカルテをもう一度見直す。

「ほう、そうですか。」

 検査結果には【失明】と書かれている。医師はホッと短く呼吸を整えると話を続ける。音のない空間に、医師の声が冷たく聞こえる。

「ぴっぴさん、よく聞いてください。そんなに身長の高い四歳児はいませんよ。残念ながらあなたは十九歳です。顔の造りや肌の老化具合からいっても、まず間違いありません。」

 ぴっぴは、先生の喉仏が動くのをただ見つめる。医師は動揺しているぴっぴに気づいていた。しかし構わず淡々と話を続ける。

「それから、これはわかりますか。あなたは未成年者ですからね、身元引受人に来ていただく必要があります。離婚されたお父様の行方はご存知ですか。」

(リコン?)

 そういえば、ぴっぴは父さんの事を考えた事はなかった。それはそうとお母さんがすぐ近くにいるはずだ。慌てて医師に

「ぴっぴにはおかぁさんがいます。ここにくるとちゅうであったんです。せんたくをほしていました。トンネルのむこうのいえにすんでいます。」

 と告げる。先生は何やらカルテに書き込んでいる。サラサラと文字を書く時間が長く感じた。書き終わるとぴっぴの方をゆっくりと向き直り

「ぴっぴさん、落ち着いて聞いてください。」

 ぴっぴは医師が口を開こうとするのを拒み、左右に大きく首を振る。栗色の柔らかい髪が、顔とは逆方向にさらさらと揺れた。しかし、医師は話を始める。

「お母様は、ぴっぴさんが四歳の時に病死されています。台帳にそう書いてあります。」

(うそだ)



 ぴっぴはそれから三度三度運ばれてくる食事にも、一切手をつけようとはしない。どこに焦点を合わせるでもなく、ただ目の前を通り過ぎる不確かな風景を見送る日々が続いた。



 二ヵ月後。梅雨のアカデミックシティでは昨晩から雨が降っている。早朝六時、いつものように看護士がぴっぴの部屋に朝食を運ぶ。雨音に混じり部屋の中からぼそぼそと話し声がする。看護士はそうっと扉を開け、隙間から中の様子を覗く。ぴっぴは何か話している。

「おじぞうさん、おじぞうさん、けさもあめはふっていますか。ぴっぴはゆめをみました。きいろいあまがっぱをきて、おかぁさんとかいものにいくところでした。」

 看護士はそっと耳をドアの隙間に挟み話を聞いている。

「めがさめると、あめのおとがきこえました。これは、ゆめがさめたのだとおもいました。ぴっぴのかぁさんも、とおくおでかけしたのから、かえってきたのだとおもいました。」

 ぴっぴの声は次第に皹割れるように震える。

「けれどなにもかわっていませんでした。みなさんのいうにはぴっぴはめがみえないらしいのです。でも、ぴっぴはそれにきづくことができません。きっといまはなしかけているおじぞうさんも、そこにはいないのでしょう。」

 看護士は病室のぴっぴを見る。

「ぴっぴは、なんだったんでしょうか。こんなことなら、うまれてこなければよかった。」  

 ぴっぴが話している相手は電気ポットだった。看護士は持っていた麻布ハンカチをポケットから取り出し、涙でマスカラが落ちないように下瞼を押さえた。

「ぴっぴさん、朝食ですよー。」

 扉を大きく開け、気丈な笑顔でぴっぴに語りかける。しかし振り返ったぴっぴの目には、涙で赤く腫れ上がっていた。


 ぴっぴが病院に入り四ヶ月が過ぎた。その後も父親は見つからない。病室では看護士が貸し出してくれたポータブルテレビがついている。ニュースは間もなく始まる夏の甲子園の様子が映されている。高校球児の眩しい姿と対照的にぴっぴは画面を観る事はなく、ベッドから上半身だけ起こし目の前の壁をぼーっと眺めている。食事を摂らないので腕には栄養剤が入った点滴が差し込まれている。点滴はぽつ、ぽつ、とゆっくり管へと落ちてゆく。ぴっぴは壁を眺めながらファロス島を出発した日の事を思い出していた。

「ぴっぴ君、君がこの無線を聞いている事を願います。実は私は君に隠していた事があります。」

 あの船に乗った日、途切れた無線の意味がわかった。きっとヨルシュマイサーはぴっぴの目が見えない事を知っていたのだ。頭の中には、ヨルシュマイサーが丁寧に教えてくれたレンズ工房の日々が蘇る。

「あれ?」

 突然声が出た。

「ぴっぴのめがみえないのにどうしてヨルシュマイサは、レンズをおしえてくれたんでしょう…。」

 しばらく考えてみたが答えは出なかった。その日の午後、病室に看護士と医師が入って来た。二人とも何時にも増して上機嫌である。ぴっぴは相変わらずぼうっと壁を眺めている。

「ぴっぴさん、喜んでください。あなたの親類が見つかりましたよ。」

(シンルイ?)

 ぴっぴは誰の事か判らない。

「どうぞ。」

 医師は少し大きな声で壁の向こうまで聞こえるように話す。そして再びリモコンで自動扉を開け、一人の女性を病室へと招き入れた。入って来た人物は小太りで疲れた顔をしている。ぴっぴはその女性に見覚えがあった。

「…おばさん。」

 母親の姉である。ぴっぴは知っている人に出会え、嬉しい気持ちを思い出す。

「おばさん、むかえにきてくれたのですか。ぴっぴはアカデミックシティのみなさんからめがみえないといわれ、ここにとじこめられていたのです。」

 しかしぴっぴの気持ちの盛り上がりとは裏腹に、伯母の表情は暗い。汚いものを観るような蔑んだ顔で目も合わせずに口を開いた。酷い口臭だ。

「警察から連絡があって、あんたを引き取るようにいわれたんだよ。てっきり妹が死んであんたもどこかでのたれ死んだと思ってたのに、しぶとく生きてたんだねぇ。全く世話が焼けるよ。」

 伯母の鋭い言葉は、ぴっぴの心を切り裂いた。自分が歓迎も心配もされていない事に気づき、心に灯っていた小さな希望の炎は一瞬にして消えた。医師と看護士も伯母の言葉に驚く。伯母はそんな事は構わず続ける。

「妹もとんだお荷物を残していってくれたわよ。普通の子ならまだしも、頭のおかしい子を残して死ぬなんて、犯罪だよまったく。」

 それを聞くとぴっぴは俯き、それ以上何かを話そうとはしない。見るに見かねた医師が

「お姉さん、そんな言い方はないでしょう。ぴっぴさんにだって生きる権利はある。生活する権利もある。あなたの血を分けた妹さんの子なのですから、赤の他人ではありませんよ。」

 すると伯母は怒りの矛先を医師に移し

「あんた達ブルジョア階級の人間はすぐにそうやって正論を持ち出すんだよ。え?こいつを引き取るのに一年で幾らかかるとおもってるんだい?妹がとっとと死にやがるから両親だってあたしが面倒みているんだよ。あんた庶民の暮らしを考えた事あるのかい?」

 医師は伯母の毒ガスのような口臭と剣幕に黙った。看護士はぴっぴの反応を気にして顔を向ける。

(とうだいに、かえりたい。)

 ぴっぴはそれを医師に告げようか迷った。しかし、それを言葉に出来ない気持ちがぴっぴを支配していた。

(みんなは、ぴっぴがいることがめいわくだったんです。)

 口が動くのを自らの意思が拒んでいた。そして俯きながら小さな声で呟く。

「…おばさん、ぴっぴがじゃまならつれてかえらなくていいです。ぴっぴは、ここにいます。」

 そういうと、ぴっぴは布団を両手でぎゅっと握る。病院にいる事を決意した。

「そうしたいのはあたしだって同じ気持ちだよ。だけどね、ここであんたを置いてったらあたしは法律に引っ掛かるんだよ。保護者になっちまってるんだ。とっとと荷物をまとめな。」

 ぴっぴに選択の余地はなかった。そしてこれからの事も想像出来なかった。

(おじさんやヨルシュマイサはどうしているでしょう。)

 灯台で暮らした日々に二度と戻れない。ぴっぴはあの日、自分がヤポンスカ号に乗った事をいつまでも悔やんでいた。

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