第九章 ネオシティ

 ぴっぴと伯母は会話を一言も交わす事なく、電車を乗り継ぎ家へ向かう。場所はアカデミックシティから遠く離れたネオシティという場所にあり、その名は百年以上前につけられた。現在は治安が悪くコンクリートで出来た高層ビルの殆どが廃墟と化し、辛うじて雨風をしのぐ程度の祖末な住まいで人々は生活していた。街の殆どが貧困層であり、働き口もなく隣接するシャティエンという街まで出稼ぎに行っている。

 ぴっぴは伯母の後ろについて歩いた。すれ違う住民は皆破れた服を継ぎもせずふらふらと歩いている。亡霊の街で車はシャティエンに続く幹線道路でしか見かけない。そして車の所有者の大半はネオシティの住民ではない。幹線道路以外は不気味に静まりかえり、排気ガスで汚れた信号機が無機質に青色と赤色を繰り返している。ぴっぴは以前のように好奇心で街を眺める事はしなくなった。俯き自分の足が動くのを見つめながら歩いている。

 

 ようやく着いた伯母の家は街の外れにある雑居ビルだ。止まってしまいそうなエレベーターで六階まで上がり、降りると目の前にドアがあった。ぴっぴにとっては牢屋の入り口だ。

「はいれ」

 扉を開けると中は細長い1Kの部屋である。突き当たりにたった一つあるカーテンのない窓からは、血のように赤い西日が容赦なく差し込んでいる。壁際には逆光に照らされ黒く細い小さな人影が二つ見えた。近づいてみるとミイラのように痩せこけ、座っているのか死体が置いてあるのか区別がつかない。ぴっぴは顔を覗き込んだ。伯母が面倒くさそうに口を開く。

「それはあんたの祖父母だ。」

 瞼は落ち凹んで皮膚は黒ずみ、鼻や頬骨に沿って障子紙のようにシワシワに貼りついている。髪の毛も殆ど抜け落ち、長い間瞬きしていないためか目にはゼリー状の膜がはっている。ぴっぴは祖父と思われる人物を見つめる。するとその口が微かに動いた。

「やや!」

 ぴっぴは驚きのあまり声がでた。すぐさま伯母の存在を気にして振り返ったが彼女は冷蔵庫の横で段ボールを取り出そうとしていた。ぴっぴは気を落ち着けると再び祖父の顔を見た。祖父の口は鯉が水面で呼吸をしているように確かに動いている。

「ぴっ...ぴ、よく...きた...ね。」

 ぴっぴは頭を縦にぶんぶんと降る。

「おじいちゃん」

 返事をしようと思ったのも束の間、冷蔵庫の横で伯母が大声を出す。

「おまえ、明日からこれをかけな。」

 現実に引き戻された。振り返ると、伯母は展開した段ボールを持っている。そこには黒いマジックで『わたしは目がみえません。生活の為にお金をください。』と書かれていた。ぴっぴは無表情のまま頷いた。

 翌朝、ペットボトルの口を切った筒を片手に街へ出る。居候のぴっぴに食事が出る訳はない。夕食も朝食も食べていない為よろよろと歩きながら大通りに出る。

(ぴっぴもおじいさんやおばあさんのようになっちゃうんです、きっと。)

 歩きながらぴっぴの脳裏に祖父母の姿が浮かび、落ちないコールタールのようにこびりつく。晴れる事のない重苦しい空。この町の電気はシャティエンにある発電所から供給されているが、貧しいネオシティの住人は電気代を免除されていいる。結果この街には電気代という概念はなく、閉店、倒産した店舗の電飾看板であっても不気味に光り続けている。『スシ一皿一〇〇円、マージャン2F』嘗て住人達が好き勝手に営業した商店の名残だ。ぴっぴは電飾の間を通り抜けスクランブル交差点にある信号機の横に座ると、段ボールの文字がよく見えるよう首にかけた。横断歩道の先にはシャティエンに向う多くの人が信号が変わるのを待っている。皆黒いスーツを着て顔は青白くイライラしている。信号が青に変わるとフナムシのように一斉に動き出す。横断歩道の白い線など意味があるのか、縦横に広がりながらぴっぴには目もくれず足早に歩いて行く。少しでも足を掠めようものなら

「チッ」

 舌打ちをされる。ぴっぴは蹴り倒されないように注意を払い、半ば興奮状態で人々の群れを除ける。歩行者用信号が赤になれば今度はフナムシと同じぐらいの数の車が行き来する。車の中には時折荷台にアニメキャラクターが印刷されているもの、缶ジュースのレプリカが乗ったものなどもあるが、兎に角一糸乱れぬ様子で鈴なりに連なり通り過ぎて行く。一度流れをとめようとする車があれば

ビービビーービーー

 後続の車から大きなクラクションを鳴らされる。そんな慌ただしい街の流れとは対照的にぴっぴだけはじっとしている。蒸し暑さからほんの十分座っていただけで額から汗がだらだらと流れ落ちる。慣れぬ物乞いに居心地の悪い様子でごそごそと何度も段ボールの位置を直したり、頭をぱりぱり掻いたり落ち着かない。幾度か信号が変わり正午を過ぎた頃、暑さで意識が遠のいてきた。突然手に違和感を覚える。持っていたペットボトルの切れ端を見ると千円が入っていた。顔を上げると目の前に立っていたのは黒ずくめの人種ではなく恰幅のよいサングラスをかけたサンタクロースのような観光客だった。どうやらぴっぴの事を大道芸の者だと思っているらしい。持っていたコンパクトデジカメのシャッターを押す。

「…。」

 観光客はぴっぴが芸をするのを待ち望んでいたようだったが、暫くしても何も始まらないのを知ると外国語で喋り続け、肩をすくめるとガイドブックを開き、観ながら何処かへ去って行った。観光客が見えなくなってから再度ペットボトルを覗き込む。縦に折り目のある千円が入っている。ぴっぴは生唾を飲み込み、左手でお札に手を伸ばす。お札を手にしようとした時、腐乱した卵の臭いが鼻から耳に抜け、瞬間的に目を閉じた。直ぐに目を開いたが、ペットボトルの中にお札がない。慌てて辺りを見回すと黒ずくめの集団の方へぼろぼろの服を何十にも重ね着をした薄汚い男が足を引きずりながら走り去るのが見えた。手には縦に折れ線の入った千円札が握られている。追いかける気力もなく、人ごみに消えて行く男の姿が見えなくなるのを見送る。そして空腹からぐったりと横になり、目を瞑るとそのまま眠りについた。


 ぴっぴはいつものように仕事を終え、灯台の扉に手をかけた。

「ただい…」

 中ではヨルシュマイサーと灯台守が話をしている。そうっと扉を開け、中の様子を覗く。ヨルシュマイサーは何時になく動揺しており、ダイニングテーブルの周りを行ったり来たりしている。苛立ちながら

「ぴっぴさんの言っている事を私は理解しかねる。」

と言い放つ。ぴっぴは扉の前で黙っている。

「あいつぁ自分では目が見えると思ってル。だが所詮全ては妄想に過ぎなイ。大体何処から来たのカわかったもんじゃなイ。どうせ風俗かなんかの若い娘が孕んじまっテ、生んではみたものの育てられないからって捨てたんだロ。」

 ぴっぴは扉を静かに閉めると灯台から走り去る。気が動転しているぴっぴは逃げるように力いっぱい走る。ところが踏み込もうとした足が地面につかない。

「わぁぁぁぁぁぁぁーーー」

 岬から足を踏み外し灯台下の波止場に落ちて行く。

グチャリ

 コンクリートの地面に叩き付けられると全身が痛みと燃えるような熱さで苦しい。

(このまましんでしまうんです。あれほどのぞんでいたのにしぬのがこわい。)

 暗闇で足をじたばたさせている哀れな蝉のようにもがき苦しんだ。波の音が遠くに聞こえる。


 目を覚ますと辺りはすっかり薄暗くなっていた。人の群れは昼間と反対方向に流れている事以外変わりはない。ぴっぴは大きな欠伸をするとむっくりと起き上がり、段ボールを整える。見ると段ボールには人の靴後や落書きスプレーで真っ黒に文字が書き加えられている。

シネ、ゴミ、キエロ

 ぴっぴはじっとその文字を見つめる。大勢の黒ずくめ達が、ぴっぴを避け家路を目指し早足に通り過ぎて行く。歩行者用信号が赤になると段ボールを見ていた目線を車道に移す。昼間走っていた車の代わりに数知れない赤い火の玉がぴっぴを囲んでいる。驚いたぴっぴは慌てて立ち上がる。

「かじだぁ!かじー!」

 信号待ちをしていた黒ずくめ達は、その言葉には反応する。火元が何処かも解らぬまま蜘蛛の子を散らすようあっという間に走り去り、至る所から叫び声が聞こえる。黒ずくめ達はぶつかったリ転んで踏みつけられたりしながらあっという間にその場から姿を消した。ぴっぴも段ボールを首から外し、逃げる支度を始める。すると高音の唸りをあげサイレンが近づいて来る。交差点は封鎖され、中から銀色の消防隊員がぞろぞろと降りて来る。

「怪我はありませんか!火事は!火事はどこですか!」

 消防隊員はぴっぴに詰め寄る。

「あ…あわ……。」

 ぴっぴは愉快犯として逮捕された。しかし障害者認定を受けていたので責任能力を問う事が出来ず、一晩拘置所に居た後即釈放された。


 家に戻ると伯母は怒りを露にし、ぴっぴが首から下げていた段ボールをバリバリと毟り破るとゴミ箱にぶち込んだ。真っ赤に熱した鉄球のような怒りはそのままぴっぴにぶつけられ

「早く死ね。」

 と冷たく言い放った。それ以降ぴっぴは外出する事さえ禁じられた。祖父母と同様三人部屋の中で死を待つ日々が始まった。三人はろくに食事も与えられなかったが、伯母が働きに行っている間、毎日冷蔵庫の上にあるシリアルをバレないように少しだけポリポリ食べた。祖父母の口元にも運んでみるが、全く動かない。ところが伯母は毎日祖父母のオムツを取り替えている。取り替えている以上は生きているのだろう。家の中から出られないぴっぴは退屈で仕方がない。お腹は空くしやることはない。毎日部屋の中を宛てもなくぐるぐると歩き回る。そして伯母が帰って来ると部屋の隅で石のように動かなくなり、夜が明け伯母が仕事に行くのを待った。幾日もそれを繰り返した。

「ほんとにどんなしぶとい身体の造りなんだろうね、中々死にゃしない。」

 今日も皮肉を言いながら伯母は仕事に出て行った。


 一月後、いつものように部屋をぐるぐるしていると、右足が何かを蹴飛ばした。ぶつかったものに目を留めると伯母が朝消したテレビのリモコンが目に入る。しゃがんでリモコンを手に取り、試しにテレビに向けてボタンを押してみる。ニュース番組が映る。

「本日書類送検されたのは、アカデミックシティ内で研究をしていた六人の研究者です。教授達は細胞組織の研究として申請していた科学研究費を別の研究計画に使用していたとして…」

 カメラのストロボを焚かれ、車に乗り込む教授陣に見覚えがあった。あの会議室で出会った教授陣である。その中には沖の姿もあった。ぴっぴは立ったままテレビをじっと見つめる。暫くすると目を伏せた。テレビを消すと祖父母の横にぴたりと寄り添い、目を閉じた。

 

 それから一年とニヶ月後の二〇三四年十一月、ぴっぴはガリガリに痩せこけていた。歩くだけでも体力を消耗するようになり、最近では部屋の中もうろうろしなくなった。

ガンガンガンガン!

 秋の日の午後、扉を叩く音がする。ぴっぴは誰が来ても顔を出すなと伯母から言われていた。そしてこの一年、言いつけを守ってきた。しかし今回は随分としぶとい。

ガンガンガンガン!

 ぴっぴは祖父母に寄り添い両手で耳を塞いでいたが、あまりにしつこい。

「う、うるさいです。うちはおるすです。」

 ところがドアを叩く音は止まない。仕方なく扉を開けると鼻の奥までカマンベールチーズの香りが伝わって来た。

「ピザの宅配です。」

(ピザ?)

 一瞬わからなかったが以前ファロス島の竃で灯台守が焼いてくれたのを思い出した。しかし、頼んだ覚えなどない。

「えー、二千八百円になります。」

 店員は間違いに気づく間もなく料金を請求する。ぼさっと突っ立っていると店員はその鎌で切って開いたような細い目でぴっぴを見つめ、すぐさま腰のベルトにつけていたバーコードの読み取り器を外すと表札の下にあるバーコードに翳した。赤いレーザー光が一瞬光ると

 と鳴る。そして男はピザを押し付けると淡々とバーコードの器械を仕舞い

「ありがとうございました。」

 そう言って扉を閉めた。よくわからないが食べ物が手に入った。ふらふらする身体と意識を必死でピザに集中し、部屋の中央まで持って来ると慎重に床に置いた。蓋を開けるとピザは灯台守が作ってくれたものより随分生地が厚い。涎が出て来る。すぐにでもかぶりつきたい気持ちだったがぐっと堪え、箱の段ボールを小皿くらいの大きさに二つちぎり、そこに一切れずつピザを乗せた。祖父母が食べない事は分かっていた。しかし一人で食べるのも味気ないので座っている足下に一切れずつ置く。そしてピザを挟んだ向い側に座ると頬張る。熱々のピザは少し塩辛かった。

「ふぅー。」

 四切れ食べたところでお腹がいっぱいになる。残りは隠しておこうと蓋を閉め、ピザが入っていたビニール袋に元通り入れ直していると、セロハンテープで貼られた割引券が目に入る。

ミンボウ…ぽっきり…おまちしてます

 漢字の読めないぴっぴは飛ばし飛ばし文字を読む。少し考え、窓の外に目をやる。

「…。」

 券を箱から剥がすと祖父母の処に歩いて行き正面でしゃがみこむと、二人の手を片方ずつそっと自分の膝小僧に重ねる。そしてぼそぼそと話し始めた。

「おじいちゃん、おばぁちゃん、ぴっぴはたびにでます。もうここにはかえってこられないとおもいます。ふたりをつれていけなくてごめんなさい。つぎにぴっぴがうまれてくるときも、ぴっぴのおじいちゃんとおばぁちゃんでいてください。では、さようなら。」

 二人はピクリとも動かない。ぴっぴはそれぞれのおでこにキスをして、伯母の家を後にした。

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