第七章 アカデミックシティ

 トンネルを抜けると眩しさで目の前が真っ白になった。

「んーまぶしいです…。」

 ところが目が明るさに慣れても目の前は真っ白だった。

「あら?」

 目をぐじぐじ擦って辺りを見回す。空を見上げると青空に白い壁が吸い込まれている。下を向くと地面はコンクリートで出来ている。どうやここが夢の中ではない事は確かなようだ。ぴっぴは先頭にいるアンドリューの元へ駆け寄る。

「ここがアカデミックシティですか?」

 アンドリューは顔をぴっぴに向けると頷き、壁沿いの遥か先を指差す。遠くに小さな小屋があり、そこからは太いロープが白い壁に向かって伸びていた。

「あそこでゴンドラに乗るんだ。ゴンドラといってもロープウェイとごちゃまぜになったようなものだけど。乗り場には警備員が沢山いる。通行証を僕は持っているけれどこれっきりしかない。そんなわけであんた、もう一度ディの背中に隠れて。」

 ぴっぴはふてくされた顔をするが言われた通りにするより他にないのでしぶしぶディの背中に飛び乗った。再び上からヤタをかけてもらい、揺られながら先へ進む。ゴンドラ乗り場に着くとインターホンの音が聞こえる。アンドリューが中にいる警備員と何かやりとりをしている。許可が降りたとみえぴっぴの乗っているディが揺れ始めた。少し動いたところで再びディの動きは止まる。


ピーッピーッピーッピーッ

ブシューッ

ピンポンパンポンパンポン

 

 ぴっぴはヤタの中であちこちから音が聞こえ落ち着かない。再び動き始めると床が強化硝子に変わった。またしても熱さと重力で頭に血が上り朦朧とする。どうやらゴンドラにディが詰め込まれているらしく、頭と足をそれぞれ別のディに押され窮屈でたまらない。

(はやく…しゅっぱつしてください…)

 心の中で祈るとようやくゴンドラは動き出した。下しか見えないぴっぴは高速で移動するレールを見つめている。突然レールがなくなるとコンクリートの地面が遠ざかって行くのが見える。アンドリューが口を開いた。

「アカデミックシティは全ての建物がドーナツ型に繋がっているんだ。そうすれば中央棟の警備員は三百六十度全ての部屋を一度に見渡せる。何よりも効率を最優先するからね。少ない人数で警備出来るという訳さ。目的は研究している情報を盗まれないように監視しているんだけど、僕には学者自身を監視しているように見えるよ。」

 「ふーん、なんかへんてこなとこですね。」

 ぴっぴはヤタの中から答える。

「監視されているのは学者だけじゃないよ。研究棟の各階には監視カメラがついていて、学者は警備員をいつでも監視できるんだ。お互いでお互いを監視し合っている。なんだか変な所だよ。」

 アンドリューは上を向く。ゴンドラのロープを支えている支柱の影がアンドリューの顔に定期的に影を落とす。

「ぴっぴはアカデミックシティでうまれなくてよかったです。」

 その言葉にアンドリューは振り返る。

「何もここだけじゃないさ。僕らはずっと前からアカデミックシティにいるんだ。このディみたいにね。人間は生まれて二百年やそこらで、あっさり人間を捨てたんだ。今ここにいるのは動物か、名前を付けられた何かだろう。生まれつき監獄にいるから、それすらも気づけないだけだよ。」

 そう言うと俯いた。

(ぴっぴはカンゴクにいったことはないです。)

 難しい話は苦手だ。ヤタの中で首を傾げ、アンドリューは色々な国を旅しているので難しい事を知っているのだろうと思った。そうこう話しているうちに、ゴンドラの下に白い地面が見えて来た。

ガコンガコン!

 左右に揺れる。ゴンドラの底辺についていたローラーが白い地面のレールと噛み合うと、今度はそれに沿って動き出した。

「ここは建物の天井だよ。」

 それを聞いたぴっぴは驚く。

「てんじょうがおわったら、ゴンドラはおちちゃうんですか。」

 アンドリューは笑う。

「そんなわけないよ、このゴンドラはね、立方体の六面全てが壁にジョイント出来るようになっているんだ。だから天井が終われば次は下に降りる側面がジョイントしてエレベーターのように降りるんだよ。全てが繋がっているからね、縦横無尽に動けるってわけさ。」

 ぴっぴはほっとする。

「それだけじゃないよ、これから行く階は窓側の部屋が家畜庫になっているんだ。ゴンドラの扉と建物の外壁が噛み合うと内側に壁が倒せる。すぐにディを搬入出来るから、一々ゴンドラから家畜を降ろして檻まで連れて行く必要がないんだ。」

 ゴンドラは天井を超えるとゆっくりと建物に沿って降下して行く。地上五十階建て巨大ドーナツ型ビルの内側はその全ての部屋があらゆる研究のために使われている。会議をしている部屋、顕微鏡を覗いている部屋、講義をしている部屋など、様々な活動が行われている。ぴっぴの視界には中庭が見えてきた。庭は芝生が敷き詰められており、区画毎に牛の放牧、仏像の彫刻、ビニールハウスなど、屋外での研究に使用されている。大型のクレーン、貨物自動車が米粒のような大きさで処狭しと動き回り、黒豆ほどの小さな牛を見つけると嬉しくなった。ゴンドラはその後も縦に横にぶんぶん揺れ、少し気持ち悪くなった。

「ぴっぴ、もうすぐディの家畜庫に着くよ。家畜庫では研究者が一人待っているので、僕は引き渡しが終わったらすぐにゴンドラで帰ってしまうけれど、カードキーをディの足下に落として行くからそれで家畜庫から出るといいよ。」

 それを聞くと寂しくなった。

「あの…、ありがとうございました。」

 ぴっぴは巧い言葉が見つからず、アンドリューに礼を告げる。間もなく目的の十五階に到着しようとしている。

「学者に捕まるなよ。なんていうか、久しぶりに他人と過ごして面白かった。」

 十五階に到着した。ゴンドラは壁にジョイントすると檻の壁はゆっくりと丸ごと建物側に倒れ、広がったスペースにディがのたのたと降りて行く。

「どう、どうどう。」

 アンドリューはディを家畜庫に誘導する。ぴっぴはヤタの下に居るので、部屋の様子がわからない。

「やぁ、ようこそ。そしてご苦労。今度は検体を死なせないようにしますよ、ははは。」

 早口な男の声がする。アンドリューは苦笑いを浮かべ

「…これでご注文のディは全部です。ご確認を。」

 と返した。

「はい。確かにディ二十頭。間違いありません。では受け取りを。」

 アンドリューはバーコードの書かれている紙を男に見せる。男は印鑑大のレーザーポインタでバーコードの上に翳す。

ピ。

 確認が取れるとアンドリューは紙を胸ポケットに差し込む。

「では私はこれで失礼します。」

 ぴっぴの入っているディをぽんぽんと叩く。そして約束通り足下にカードキーをわざと落とし、再びゴンドラに乗り込むと来た道を帰って行った。明かりが消され、早口の男は部屋を後にする。部屋はディの呼吸する音だけが聞こえる。ぴっぴは誰もいない事を確認すると、ディの背中からすとんと転げ落ちた。

「あいたたたた…。」

 部屋には干し草が敷き詰められている。長時間同じ体勢だったので身体のあちこちに凝りを感じる。ぐるぐると頭を回すと、少しすっきりした。早速カードキーを拾い,扉を探す。部屋を見回すと暗闇の中に、ほんのり明るく光る場所がある。

「なんでしょか…」

 床はゴム状でふにゃふにゃと歩き辛い。近づいてみると大きなポンプである。その下の洗面台には獅子脅しのような形をした透明プラスチックの筒から黄色い水がぽたぽたと滴り落ちている。一口飲んでみる。

「うぁぁ、くすりのあじがします。」

 とても美味しいとは言えない。どうやら栄養剤が入ったディの飲み水のようだ。気を取り直し水飲み場の僅かな光を頼りに、檻の鉄格子を手繰りながらカードキーの入る場所を探す。規則正しく並ぶ鉄格子の棒を一本一本掴んでみる。すると一カ所だけ四角いチョコレートの箱のような手触りを感じる。ぴっぴはカードキーを挿し入れる。

ピーーッ!

(まずいです!)

大きな音がして一瞬肝を冷やしたが、音はすぐに止んだ。ほっとして扉をそっと押す。手の力だけで簡単に開いた。檻の外側がどうなっているのか解らないため、そろそろと両手を前に差し出し前へ進む。数歩歩いた所で何かに触れた。そのまま垂直に手を降ろすと何処までも触れる。

「かべです。」

 手を壁に沿わせたまま左方向へずんずん歩いてみる。しかし一向に何も見当たらない。今度は左官屋のように上から順番にスースー壁を撫でて行く。少し位置を移動して同じように壁を撫でて行くと、あるところで段差に差し掛かる。これは壁の継ぎ目か、もしくは扉だ。そこでぴっぴは早速爪を立てて両側に引っ張ってみる。

「んーーーー。」

 びくともしない。仕方がないので少し横に移動し、再び壁を撫でてみる。随分長い間壁を撫でた。ぴっぴは頭の中で部屋の形を把握して行く。そして少し小走りで移動する。すると何かが右手の端にぶつかり、そして凹んだ。

ウィーーン

扉の開く音がする。

「おー。」

緊張しながらぴっぴは開いた場所に近づく。部屋の外には先程まで見えなかった非常口の緑色の光が小さく薄ぼんやり発光している。慎重に一歩左足を踏み出すと、ぴっぴの真上にある蛍光灯だけが点灯した。慌てて足を引っ込める。すると蛍光灯も消える。ぴっぴはしゃがんで小さくなりながら辺りを見回す。

「だれか、ぴっぴをみているのですか。」

しばらくしても何も変化がないのでもう一度足を踏み出してみる。再び自動センサーが反応してぴっぴのいる場所だけを照らす。

「はっ!」

ぴっぴは訳がわからないので目を瞑り、一目散に走り抜ける。突き当たりにぶつかるだろうと思っていたが、先はどこまでもどこまでも進める。ぴっぴの居る所の蛍光灯が次々と点灯し、そして暗くなる。ぴっぴと明りはあっという間に蚤のように小さくなり、見えなくなる。開いたままの扉からはディの黒い影が、のそのそと出て来る。自動センサーのライトが再び点灯する。

 廊下の途中で今度は目を閉じている事が不安になり、走りながら目を開けた。どの部屋も扉は閉まっているのに、目の前にある右側の扉だけが開いている。扉の前を通過しようとすると突如、ぴっぴの目の前に巨大な馬の蹄が現れた。

「ぶつかる!!」

ぴっぴは勢いを止める事が出来ずその場に転んだ。頭を抱え踏みつぶされないようじっとする。馬の大群は壁から現れ、次々とぴっぴの頭上を走り抜け、壁に吸い込まれて行く。馬は紫色に発光し、音もなく走り去った。ぴっぴは尚もじっとしている。遠くから声がする。

「やぁやぁすみません。まさか人が歩いているとは思わなかったものですから。」

ぴっぴは自分が押しつぶされていない事を確認すると顔を上げた。横をみるとゴムで出来たチョコレート色のスリッパが見える。

「怪我はありませんか。」

顔の前に手を差し伸べられる。ぴっぴが顔を上げると二十歳前後の金髪の青年が立っていた。痩せてバランスの悪い体格の青年は心配そうに見つめている。ぴっぴは差し出された手を握ると起こしてもらった。

「ホログラムの実験をしていたんです。この時間この棟ではほとんどの部屋が講義や会議をしていますので、廊下を歩いている人はいないと思っていたのですが。びっくりさせてしまってごめんなさい。」

 ぴっぴは青年が言っている意味がよくわからなかった。きょろきょろと辺りを見回すと馬はどこにも見当たらない。

「おうまさんは、どこにいっちゃったんですか。」

 青年はぴっぴがホログラムの事を知らない事に気づいた。

「馬は僕が作成したフィルムが連続したものだったんです。ここにはいません。あなたが見たのは実際には存在しないものだったんです。」

 それを聞いたぴっぴは、馬の輪郭が虹色に輝いていた事を思い出した。

「あの…、もののはじっこがにじいろにみえるのはなんでですか。」

 青年は自分の研究について質問されたのだと思い、丁寧に説明を始める。

「はい、ホログラムというのは現実に存在しているものではなく、光の幻なのです。あの馬は事前に参照光と物体照射光とで馬を特殊なフィルムに記録したものです。そのフィルムに再生照明光をあてると、干渉縞によって馬がいるように見えるという仕組みなのです。僕はレーザー光ではなく、LEDでのホログラム実験をしていますので、あのように生きている馬も記録する事が出来るのです。」

 ぴっぴはよく解らない。

「おうさまんだけではありません。あなたのかおも、このろうかのてすりもすべてのはじっこがにじなわけは、なんでですか。」

 青年は驚いた。

「それは…」

 ぴっぴはいよいよ答えが聞けるのだと目を輝かせる。青年は少し弱った顔をしたが、気持ちを切り替え真剣な顔でぴっぴの顔を見た。

「それは僕の専門外なので、専門の所へいらっしゃってはどうですか。ご紹介しましょう。」

 ぴっぴは少しがっかりしたが頷く。青年は左手でお尻のポケットからRHODIAの小さなメモ帳を取り出すと、右手で胸ポケットにさしてあったボールペンを取り出し、書き終わると地図の説明を始める。

「いいですか、ここはD棟という場所です。ここから真っ直ぐ廊下を行くと直ぐに交差する箇所があります。左に曲がり、更に直進するとF棟という表示があります。そこで階段を二階上がってください。十七階の三〇五番研究室にあなたの質問に答えてくださる先生がいます。C.クーリンから紹介されたと仰ってください。僕からも研究室に連絡を入れておきます。」

 メモ帳を破ると差し出す。ぴっぴは両手でしっかりと持ち、クーリンの顔を見上げる。

「なにからなにまでありがとうございます。さっそくいってみようとおもいます。おうまさんによろしくおつたえください。」

 クーリンは首を斜め前に少し傾け微笑んだ。

「いいえ、驚かせてしまったのは僕の方ですから。答えが出るといいですね。」

 ぴっぴは上唇を下の歯で引っぱり照れくさそうに深々とお辞儀をし、クーリンと別れメモを頼りに歩き始める。

 アカデミックシティの床には吸音素材のカーペットが敷かれ、全く足音がしない。頭上の蛍光灯だけが点くのにも慣れた。曲がり角を目印に注意深くゆっくり歩いていると、暗闇だった前方の照明が順番にこちらに向かって点灯し始める。ぴっぴは立ち止まる。

 ミニスカート姿にショートヘアーでスタイルのよい女性が近づいて来る。左手には吸いかけの煙草が見える。不思議と煙は臭わない。ぴっぴとすれ違う所まで来ると、女性は目の前で煙草を床に投げ捨てた。驚いたぴっぴは振り返る。女性は煙草を気にせず颯爽とモデルのような歩き方で遠ざかる。

「なんておぎょうぎがわるいんでしょ。」

 落ちた吸い殻を拾おうとしゃがみ込み手を翳すと、煙草の上だけ風が吹いている。風は天井に空いた溝に向かい吸い込まれている。

「これでけむたくないんですね。」

 掴もうとした瞬間、煙草は逃げ出した。

「ん?!たばこがいきてます!」

 煙草を猫のように右手のスナップを利かせ一瞬で仕留める。

「アチチチ!」

 うっかり火種を触ってしまった。手を開けると煙草の吸い殻の下に小さな機械がついている。その機械はメタリック素材でゴキブリの形状をしている。頭の赤いランプがチカチカと光っている。

「きみがはこんでいたのですか。これはしつれいいたしました。」

 ゴキブリの機械と吸い殻を床に置き直す。ゴキブリは再度吸い殻を掴み、廊下の先へ走り去って行った。ぴっぴは首を傾げ、立ち上がった。


 ビービビビーーー!!


 天井についている丸い小さなスピーカーから大きな音が鳴ると廊下の照明が全て点く。一斉に廊下に面した殆どの教室の扉が開き、大勢の学生や教員、助手などが出て来る。先ほどまでの静寂と打って変わりあっという間にで騒がしくなった。ぴっぴは状況が飲み込めず、先程の右手をバスガイドが指し示すように固定したままでいる。

「あの男マジほんっと最悪なんだけどあり得なくない?!」

「先日調べてくるように言われていた資料ですが…」

 様々な人種や年齢の人が通り過ぎて行く。ぴっぴは同じ方向に歩いて行く人を見つけると、その人が履いているロールアップジーンズを目印に後ろについて小走り気味に歩いた。やがてクーリンの言っていた交差している廊下に出た。正面はガラス張りでアンドリューに教えてもらった警備員の監視塔が遠くに見える。左に進むと縁日の屋台のようにフードコートが遠くまで続いている。カレー、ラーメン、ステーキ、日本食などありとあらゆるものがここで食べられる。お腹を空かせた学生達は賑賑しく食事をしている。どの店もカウンターになっているため、ぴっぴは学生達の背中を見つつ歩く。


 すると、視界の端を何かが掠めた。床を見るが何も落ちていない。

「おかしいなぁ…。」

 不思議に思い再度カウンターに目を遣ると、学生達は食べ終わった割り箸や鼻をかんで丸めたティッシュ、空き缶などを後ろに放り投げている。しかしそれだけではない。ラーメンのナルトが嫌いな学生はナルトを、カレーの辣韮が嫌いな学生は辣韮を投げ、和食に至っては卵焼きが飛んで来る。床では先程のお掃除ゴキブリロボットが飛んで来るものを運ぶために大量に走り回っている。ぴっぴは頭上と地面の両方を避けながら歩かねばならず、つま先立ちで小躍りする。


ペチャ


 気をつけてはいたものの、ついに学生が投げたケチャップがぴっぴに命中する。オペラ座の怪人のように顔の左半分が真っ赤なまま不快な顔をしているとゴキブリロボットが四匹、ぴっぴの足から顔へ登って来た。そして顔についたケチャップを小さなワイパーで拭き去る。ロボットが去ったあと左手で顔を触るとケチャップは全て拭い去られていた。通行人の学生や研究者は、堂々とカウンターの後ろを歩き、飛んで来たものにぶつかりながらゴキブリロボットに掃除をしてもらっている。ぴっぴは唖然としてその光景を見つめる。

「何時来てもこの食堂はカオスだね、まったく。」

 横を足早に通り過ぎて行く白髭の教授は、一緒に歩いていた研究員に呆れた様子で話す。

「教授にそんな事言ったのかおまえ?」

 一際大きな声でカレーを食べていたラグビー部員体型の学生が、隣に座っているか細い朱色のベレー帽を被った友人の肩を掴み深刻そうな顔で話しかけた。ぴっぴはそちらに目をやる。

「そんな事言ったって、おかしいでしょ?私はそんな難しい理論の辻褄合わせよりも、撮りたいものを撮りたいのよ。どれだけ学術的に優れているか知らないけれど、なんで高いフィルムを大量に使って興味もないものを撮らなきゃならないのよ。私には納得が行かないわ。そんなあちこちの研究論文を切ったり貼ったりしたものなんて。」

 女性は必死に説明をした。しかし友人は呆れ顔である。

「そんな事言ったってここは大学だぞ?そんな好き勝手やるなら自分一人でやれって教授に言われちまうぞ?本当にアホだなぁ。研究費は誰のお陰で賄われていると思っているんだよ。後で謝ってこいよ。」

 女性の表情からは固い決意が伺える。

「いやよ、ぜったい。」

 お互い一歩も譲らない。ぴっぴはその様子を離れた所から見ている。

「五分前です。」

 再び天井のスピーカーから音がする。食事をしていた学生達は次々に席を立ち、次の授業の教場へ行くようだ。話していた二人の学生も立ち上がり、それぞれ別の方向へと行ってしまった。


ビービビビーーー!!

 

 授業開始のブザーが鳴った時、フードコートの学生は数えるほどになり、元の静かな廊下に戻った。


シューッ!!


 真横から白い蒸気が顔に吹き付ける。まだ何かあるのかと横を向くと先程まで急がしそうに食事を提供していたカフェの店員が、優雅に自分用にエスプレッソを煎れている。

「はぁ…どっとつかれました。」

 大きなため息をつき、気を取り直すと研究室を目指す。


 F棟に着くと地図通り階段を上る。漸く三○五番研究室の前に辿り着いた。メモ帳をポケットに終い、ドアをノックする。

コンコン…

 返事がない。

「クーリンさんがれんらくしてくれるっていったのに…おかしいですね…。」

 もう一度ドアを叩こうと手を伸ばすと、ドアは勢いよく内側に開いた。目の前に白髪の美しい六十代の女性が現れる。血統のよい犬のようにライトグレーの瞳だ。

「あらー、いらっしゃーい。ようこそ。」

 上品な外見と異なり案外気さくに迎え入れてもらえた。ぴっぴは初めて会うタイプの人に少し戸惑う。

「あの、あの、クーリンさんからしょうかいされてきました。」

 女性は満面の笑みでぴっぴを見つめる。

「お話はきいているわぁー。さぁさ、ソファにおかけになって。」

 語尾にハートマークがついていそうな口調だ。言われるがまま研究室に入ると腰掛けた。研究室内左側の壁には見た事もない分厚い辞書のような本がシリーズ毎に整然と並んでいる。女性はテーブルを挟んで向い側に座ると早速話を切り出した。

「それでー?あなたの悩みはなんなのかしら?」

 ぴっぴは今度こそはと意気込み女性に話す。

「もののはじっこがにじいろにかがやいているのはなぜかをしりたいのです。」

きっちり言い切ると、胸が高鳴るのを感じた。女性は口元に笑を浮かべたまま大きな瞳で少し考えているようだ。ぴっぴは待ちきれなくてそわそわする。

 女性は遂にぴっぴの目を力強く見た。答えを知る瞬間がやってきたのだと確信する。

「あなたの悩みにお答えしましょう。」

 ぴっぴは期待から口を大きく開ける。

「あなたの心は今とても混乱しているの。」

 ぴっぴは耳を疑った。

「…へ?」

 女性は自分の世界に酔っている占い師のように構わず続ける。

「そこであなたは意味不明な事を想像する事が習慣化してしまったのね。」

 女性の言っている事がまるきり見当違いなので

「あ、いや、ぴっぴはそんなことは…」

 女性は何かに取り憑かれてしまっているかのように続ける。

「怖がらなくていいのよ。私達は閉じた心の扉を開いてもっとハッピーな世界にする事が出来るの!そのためにはまず、あなたの心を塞いでいるものをみつけださなくちゃ!さぁ、あなたが不安に思っている事は一体何かしら?」

 女性は魔法をかけるような勢いで、自分の話の盛り上がりと共にぴっぴの顎めがけて右手を差し出し、ぴっぴは仰け反る。そして女性の獲物を捕るような圧倒的な気迫に耐えきれず、そのままソファの背もたれを掴むと女性の右手を除けながら立ち上がり

「し、し、しつれいしました。」

 扉を開ける。

「ちょっとお待ちなさい!」

 女性は大声で呼び止めようとしたが、謝るように何度もお辞儀をして扉を閉めた。

「なんなのかしらあの子。」

女性は苛立ちながら研究室の奥にある黒皮で出来たオフィスチェアーに座り直すと、電話の受話器を取り番号を押し応答を待つ。受話器を肩と頭で挟み込み、両手を机の上に並べるとピアノを弾くように動かしてみせる。ルビー色のネイルアートが施された長い爪がカタカタと音を立てる。

「あ、もしもしクーリン君?私だけど。例の頼まれた子ね、カウンセリング失敗しちゃった。あははごめんごめーん。なんか随分追いつめちゃったみたいでさぁ、途中ででてっちゃったんだよねー。」

 ぴっぴはがっかりしながらとぼとぼ廊下を歩いていた。

「アカデミックシティのひとたちでもぴっぴのしりたいことはわからないんでしょうか…。せっかくここまできたのに。せっかくおしえてもらえるとおもったのに…。」

 背中は丸まり宛てもなく、途方に暮れる。


 項垂れた顔をあげると、目の前に空から光が射している。近づくと丈夫そうに捻られた金色のロープが二本、ラムネ色の巨大な筒の中で上にも下にも伸びている。

「そうだ。じめんにいけばうしさんがいるはずです。」

 ぴっぴはよくわからないラムネ筒は避け、階段で牛に会いに行く事にした。階段は蔦のように筒に巻き付いている。筒には階数が書かれた白い電飾が五秒刻みで現れては消える。しばらく降りて行くと、10Fと表示された筒が目に入る。

「もうちょっとでじめんですね。」

 手すりを掴み再び降り始めると、ラムネ筒のロープが勢いよく動き出した。一本は上昇し、他方は下降する。そしてカプセル型エレベーターの個室がぴっぴの横を通過する。  

 ガラス張りのエレベーターには一人の男が乗っており、すれ違う際にぴっぴに気づき向き直す。

 ぴっぴが8Fまで降りると、先程の男が踊り場に立っていた。ジャコメッティの彫刻のように細長い体型で白衣を着用しており、目が合うと口を開いた。

「川窪研究員!こんな所にいたんですか、さぁ早く!会議は既に始まっています!!」

 ぴっぴは何を言われているのか解らない。男は疾風のごとく目の前まで来ると手を引き、今降りて来た階段を登り始める。言葉を返す間もなくぐいぐいと手を引かれ、12Fまで再び登ると廊下を走る。同じような部屋が幾つも続いている中、一つだけ扉の上に上映中というランプのある部屋が目に入った。ぴっぴは文字の形だけ目で追うと、その隣の会議室に連れ込まれた。

 

 会議室には白衣を着た教授陣が大勢向かい合わせに座り、突き当たり中央には眩しく発光するスクリーンに折れ線グラフが映し出されている。教授陣はふんぞり返ってスクリーンを観たり、資料を捲ったり大人しくそれぞれに好き勝手振舞う。そんな教授陣とは対照的に、一人の女性がせっせとペットボトルのお茶を机に置いている。顔を見ると、先程食堂で言い合いをしていたベレー帽の女性だ。女性の上着にはキラリと光るものがある。目を凝らしてよく観察すると、上着の裾に照明用のピンチが一つ挟まっている。

(おせんたくして、とりわすれちゃったのでしょうか?)

 男はぴっぴを入り口に近い席に無理矢理座らせると、女性に近寄り小声で話しかけた。

「君、いくら学生バイトだからって、お茶は会が始まる前に用意しておいてくれたまえ。映画研究室の学生は皆こんなに使えないのか。」

 女性はむすっと黙っている。会議ではスクリーンの直前に立っていた一人の教授が話をしていた。

「ここで問題になりますのは遺伝子改良を行う上での道義的問題についてです。」

 立っている教授は風船のように膨らんだ顔をしている。首は見当たらず、シャツに頭が乗り、赤と白のお洒落なストライプネクタイが浮いている。胸についているバッジを見るとphilosophyふうせん太郎と書かれている。

「嘗てフランシスベーコンという学者がいました。彼は日常生活を送る中には様々なイドラがあると言いました。」

(ベーコン?)

 ぴっぴは食べ物のベーコンを頭に想い浮かべる。フランスのベーコンとは美味しそうだ。「隣人のイドラ、劇場のイドラ、市場のイドラ、洞窟のイドラ。彼は作り物ではなく、目に見えるもののみを信じる事が真実であると述べました。どうでしょう皆さん。遺伝子改良をして現れた人間というのは第三者から観れば複製です。しかし本人にとってはその生というのは唯一の人生であり生活であるというのが落としどころです。遺伝子上の複製かどうかではなく、ありのままの生を個人として尊重するという文言はいかがですか。運用上リスクを伴う要因は必ず現れます。しかしそれは起こってみなければわからない。その都度形式的に実験を重ね、辻褄のあう対応策を模索して行く方向で、私は進めて行こうと思います。」

 ぴっぴは遺伝子の事はまるでわからなかったが、形式的という言葉が気に入った。

「はい、よろしいでしょうか。」

 ぴっぴは手を挙げる。白衣を着た教授陣は一斉にぴっぴを見る。議長がぴっぴを指名する。

「川窪研究員、先生は…統計学がご専門ですね。」

(トウケイガク?ゴセンモン?)

初めて聞く言葉の意味が解らない。しかし皆が静かにしているので立ち上がると口を開いた。

「けいしきてとはなんですか。」

 教授陣はどよめき、ひそひそ話が聞こえる。

「ふうせん先生の仰っている事に楯つくとは、あの研究員は何を血迷っているのかね。」

「打ち合わせと違うじゃない。また会議が長引くのねぇ、嫌になっちゃう。」

 ぴっぴは解答を待ちにこにこ立ったままでいる。ところが隣で話を聞いていたベレー帽の学生アルバイトが急に話し始める。

「あの…先生は劇場のイドラは作り物であって真実ではないとおっしゃいました。劇場は人が創った台本を人が演じます。確かにそれらの全ては模倣かもしれません。けれどもそれは表面的な仕草や台詞の事です。真実はその劇を観た者だけに与えられます。それは、その劇を観ている人にとっては真実なのです。決してイドラなどではありません。」

「君、誰が発言していいと言ったのだね。止めなさい。」

 議長は制止しようとする。ところが学生は構わず話続ける。

「あなた方のように行き当たりばったりで破れた箇所をその都度取り繕うのとは訳が違います。役者が演じているという表面的な部分だけを捉え、それがイドラだと仰るのは何故ですか。ベーコンが主張したのは、帰納法です。しかしあなたが主張しているのは帰納法という言葉を借りただけの演繹法です。あなたはその理論を当然の原理であるかのように仰る。原理はあなた方の盾ではありません。何もしたこともないのに、聞きかじりの情報をあたかも自分のものとして主張しないでいただきたい。イドラはあなた方自身でしょう。」

 学生は顔を真っ赤にしながら話した。ふうせん先生は自尊心を傷つけられたため顔が空気でむくむくと膨らんで行く。

パン!

 とうとう割れてしまった。他の教授陣は突然の出来事に驚き静観している。


 女子学生は着ていたスーツの上着を脱ぎ、パンプスもポイポイと脱ぎ捨てると、シャツのボタンを緩め、ぼそっと呟いた。

「あほらしくてやってらんない。」

 上着を背中に掛けると部屋を後にする。

「おい!君!いい加減にしないか。」

 議長はわめき散らし、二人の出席者が学生を追って部屋を後にした。

 他の教授達はこの劇場に結末が訪れるのを野次馬的に傍観している。ところが部屋の一番奥に座っていた教授は一人訝しい顔をしている。そして白衣のポケットに手を突っ込んだままゆっくりと立ち上がると、突然ぴっぴめがけてずんずんと近づいてくる。胸にはanatomy沖欣之と書かれたタグをつけている。それに気づくとぴっぴは心の中で叫んだ。

(まずいです…ぴっぴがカワクボさんじゃないことがばれたのでしょうか…カミサマ…。)

 心臓が口から飛び出しそうな程バクバクする。沖はぴっぴの前までくると中腰になり、古臭い黒の細いフレームで囲った四角い眼鏡越しにじっと目を観た。

「…。」

 脂汗がだらだらとぴっぴの背中を伝う。二人ともその場でぴくりとも動かない。

(なな、なにをいわれるんでしょう…)

 先に動いたのは沖だった。胸ポケットからペンライトを取り出すと、突然ぴっぴの眼球を照らした。不思議と眩しくはない。右目、左目、もう一度右目にペンライトを翳す。沖はゆっくりペンライトを消し、胸ポケットに終う。俯くとこう告げた。

「君の目は、見えていないね。」

 ぴっぴは長い槍でひと突きされたように全身が痙攣し、息が止まりそうになる。沖の言葉を消し去りたくて小さな声で。

「そ、そんなはずはありません。」

 と返した。しかし沖は冷静に答える。

「いや、眼球が動くので見えると思いがちなのだが、残念ながら君の目は生まれつき虹彩炎だった。そして治療をしなかったため緑内障にかかり、やがて失明した。幼い頃、ものが白っぽく見えたり、輪郭が虹色に見えたりしたことはありませんか。」

 沖の的確な指摘をぴっぴは信じられない。

「そんなはずはありません!ぴっぴはけさだっておかぁさんのすがたをみました。おかぁさんがせんたくものをほしているのをみたんです。ここへくるのだって、アンドリューがつれてきてくれました。それから…それから…!」

 ぴっぴは思いだせる限りの事をずらずらとわめいた。しかし自分が声を発しているのに、自分の斜め後ろから誰かが話しているように言葉の意味を信じられなくなっていた。

「いや、君はその見えない視力を補う為に、脳の中に特殊なイメージを生み出す方法を構築したのだろう。それで、今まで日常生活に差し障りのないよう暮らして来られた。」

ぴっぴの顔から表情が消えて行く。

「しかし、これから自分の意志だけで暮らして行くのは危険だ。僕が病院を紹介してあげます。そこでゆっくりこれからの事を考えたらいい。」

 そう言うと沖は携帯を取り出し何処かへ電話をした。

「まってください、ぴっぴはどこも…どこもわるくはありません。」

 動揺しているぴっぴを周りの学者達が哀れな目で見つめている。直ぐに救急隊員が二名到着し、ぴっぴを担架に乗せるとベルトで締め付けた。

「はなしてください!ぴっぴのめはみえています!」

 泣きながら上半身をぶんぶん振るぴっぴに隊員は錯乱状態という事で麻酔を嗅がせた。「モゴモモゴモゴ…」

 ぴっぴは口を塞がれながらわめき続けている。薄れて行く意識の中、廊下で先程の学生が捕まり、必死に抵抗している姿が見えた。



(ぴっぴのめはみえています)

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