第六章 シンコウ港

 乗船から一月、ぴっぴは見回りが来る時間には毎日空になった飼料袋に隠れる生活を続けると、ついに船はアカデミックシティにほど近いシンコウ港に辿り着いた。港には到着を待っていた整備士が船から降ろされたロープを手際よくビットに括りつけてゆく。ぴっぴとアンドリューは搭乗口で降りるタイミングを見計らっている。

「今からディが降りる木枠スロープが船に取り付けられるんだ。皆でディのお尻を棒で叩きながら船から降ろす。その間搭乗口は手薄になるからこっそり降りて検査室の裏で隠れていて。」

 ぴっぴはうんうんと頷く。アンドリューがディの元へ戻ると搭乗口の壁にぴったりとへばりつき、スロープが組まれてゆく様子をちらちらと見る。ディが船から降り始めた。ぴっぴは一目散に搭乗口から埠頭に降り立つと猛然と駆けてゆく。シンコウ港はファロス島の埠頭とはまるで違う景色だった。船からコンテナ置き場まで荷物を運ぶためのトラックが列をなしていた。ぴっぴはトラックの間を通り抜け、埠頭にある唯一の建物を回り込み裏側へ回り込んだ。

「なんだかむしあついなぁ。」

 上着を脱ぐとぐるぐると丸めて鞄の中に詰め込んだ。しばらくじっとしているとディの首に下げられている大きな鈴の鳴る音が遠くに聞こえる。音はガランゴロンと少しずつ大きくなる。ぴっぴはずり落ちてきた鞄の肩掛け紐をしょいなおした。建物の前まで到着したとみえ、鈴の音は止んだ。

検査員とアンドリューの話し声が聞こえる。

「車が使えないなんて毎度ご苦労なこったねぇ。近いっつったって、ここからアカデミックシティまで半日は歩かなきゃならないんだろう?」

「そうですね、でも車で運搬して骨折したり病気になったりするよりはずっといいんだそうです。ディも運動になるでしょうし。」

「いやぁ、それにしても殺し過ぎだよ学者の連中は。何回運ばせる気なんだろうね全く。」

 アンドリューは返答に困り、黙っている。

「なぁ。」

 仕方なく話す。

「車じゃないから僕にも仕事があるってもんですよ、通行許可証貰って行きますね。」

「おぅ、気をつけてなぁ。」

 鈴の音が再びガランゴロンと鳴り始める。アンドリューは建物の横を通り過ぎると隠れていたぴっぴの方へ顔を向ける。目が合うとぴっぴは駆け寄り、共に歩き始める。アンドリューは周囲に神経を張り巡らせたまま話始める。

「あとは埠頭の建物を抜けてしまえば大丈夫なんだけど、入り口のところに見張りがいるのであんたはディの背中に乗っかっていてくれ。」

そう伝えると先頭のディのお腹をポンポンと軽く叩き一団はその場で止まった。そして手綱を二度地面に向かい引くと、ディはゆっくり前足の膝を曲げしゃがむ。

「ちょっとごめんよ。」

 ぴっぴの両脇に手をかけ持ち上げるとディの背中にひっつける。ぴっぴはガシッと背中を掴むとよじ上り、ばれないようへの字型にだらりと被さった。その上からアンドリューがヤタの織物をかける。ぴっぴは予想以上におなかを圧迫され苦しい。

「少しの辛抱だから、大人しくしていて。」

 一団は再び移動を始めた。ぴっぴはぶらんぶらんと揺れながら、頭に生暖かい血が上って行くのを感じる。そうして入り口は難なく通過する事が出来た。

「アンドリューさん、あたまがもうもうとしてきました。」

織物の中から話す。

「朦朧だろう?うん、ここまで来てしまえばもう大丈夫だろう。降りていいよ。」

 もそもそとディの背中から出て来ると地面に足をつけた。ディの背中は思いの他暑苦しく、ぴっぴは汗でごちゃごちゃにはり付いた髪型を整える。

「アカデミックシティはあの山の向こうなんだ。トンネルがあるのでそこを抜けていくよ。」

 ぴっぴは頷いた。トンネルを目指ししばらく歩くと遠くまで見通せる気持ちのよい街に出た。ぴっぴはディが一頭もはぐれる事のないよう一番後ろに付いて歩く。この付近は雨の降った後のようにしっとりとしている。瓦屋根に海鼠壁の広い庭付き家屋がぽつりぽつりと見える。細い路地を進んで行くとどの家も同じような造りのため、次第に何処を歩いているのかわからなくなっていた。

ガランゴロン…ガランガランゴロン…

 人通りのない静かな街に、ディの鈴の音だけが移動して行く。突き当りを曲がるとぴっぴは突然立ち止まる。目の前の家に見覚えがあった。白と薄紫色の葉牡丹が等間隔に植えられ、庭先で一人の女性が洗濯物を干している。手を広げ、白いシーツの両端を持つと丁寧に物干竿にかけ、篭から次の洗濯物を取ろうと振り返る。ぴっぴと目が合った。女性は駱駝のように長い睫毛をぱちぱちさせると、美しい栗色の髪にそっと手を当てた。冬のはじめのバケツに張った薄氷のように、すぐに割れてしまいそうな表情は、優しく悲し気である。女性はか細い声で話しかける。

「まぁ、ぴっぴ、帰って来てたの。お昼ご飯お台所に用意してあるから、暖めて食べなさい。お紅茶の準備もしてあるわ。」

 女性は優しい眼差しを向ける。ぴっぴは足を止めた。

「…。」

 母親はぴっぴが返事をしない事を気にも留めず、物干竿に向き直ると小さく鼻歌を歌いながら再び洗濯物を干し始める。ぴっぴはただ母親の後ろ姿を見守る。

「…。」

 心地よい風が吹き、干してあるシーツが揺れると隠れていた日差しが目を刺激する。



 ぴっぴは長い間黙っていた。そしてやっと言葉を発した。

「あの、あとでたべます。いまはこのディをとどけにいかなきゃならないので、それが…それがおわったらもどります。」

 言葉は発すると同時になんともいえない哀しみに包まれ、今にも泣き出しそうになる。それを悟られぬよう、震える音を発するのがやっとだった。母親は洗濯物を干しながら

「そう、気をつけていってらっしゃい。暗くなる前には帰るのよ。」

 と返した。再び風が吹き、シーツが捲れ上がりお日様の光がぴっぴの目を刺激すると真っ白になった。再び景色が見えた時に、母親の姿は消えていた。洗濯物が風と戯れ揺れている。ぴっぴの耳に音が戻った。先ほどまで聞こえなかったディの首にかけてある鈴の音も、鼻息や足音も全ての時が動き始めた。

「はい…。」

 ディの一団はだいぶ先に行ってしまっている。ぴっぴがついてこない事に気づいたアンドリューは振り返る。遠くに呆然と立ち尽くしているぴっぴが見えた。「おーい、あんた!何やってるんだ。」

 ぴっぴは慌ててディの方へ走る。

「ごめんなさい、ずいぶんおくれてしまいました。」

 再び最後尾につくとアンドリューに気持ちを悟られぬよう俯いたまま歩き始めた。 


 それから半日ほど歩くと漸く一団はトンネルの前に辿り着いた。

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