第五章 ディとヤポンスカ号

 ぴっぴがファロスで生活を初めて半年が過ぎた。ファロス島に冬は来ない。相変わらず昼は熱く夜は寒い生活を送りながらヨルシュマイサーと三つのフレネルレンズを完成させた。いつものように朝ご飯を済ませ工房へ出掛けようとすると、灯台守がぴっぴに話しかける。

「そろそろ紅茶がなくなりそうだナ、今日オロッシャからの貨物船が到着するがオマエ、また紙に紅茶の名前を書いておけヨ。無線でとっておいてやる。」

 ぴっぴははっとする。アカデミックシティに行く途中、ここへ来たことを思い出した。

(でも…おじさんとヨルシュマイサとおわかれするのはいやです。)

 レンズを削る毎日は楽しく、充実感もあった。しかし…ぴっぴは頭を左右に振る。

(やっぱりぴっぴはにじいろのことをしりたいです。どうしてもののはじっこがひかっているのか、アカデミックシティのひとにおしえてもらいたいです…。)

 灯台守はそれを見て話しかける。

「なんだおまエ、腹でも痛いのカ?」

 ぴっぴは息が止まりそうな程驚く。

「い…いいえ…。」

 声が裏返る。灯台守は訝しい顔でぴっぴの背中を見ている。ぴっぴは平静を装い明後日の方向を見ながら灯台守の方へ向き直る。

「かかかもつせんは、いつまでいるのですか。」

 灯台守は察しをつけた。

(さてはあのやろウ、紅茶を全部飲みきっちまったナ。ッたくしょうがねェ野郎…いや女郎ダ。)

 そこで灯台守も敢えて優しい口調で返した。

「なんでダ?もう紅茶がなイのカ?」

 いつになく優しい灯台守の返答に焦ったが手を腰の辺りで組み、右足で半円をぶらぶらと描きながら

「…いえ、ただかもつせんをみにいきたいので。」

 と返した。そこで灯台守は確信した。

(やっぱりダ。あいつ飲みきっちまったんダ。仕方ねェなァ。ここは恍けてやるカ。)

 そこで灯台守は無線室に行き、航海予定表を見た。

「オロッシャからの船はここファロス島が終着地だからナ、一週間は停泊するゾ。」

 そう言うと食べ終わった食器を持って表に出て行った。一週間後であれば旅に出るには都合がいい。三日後にはヨルシュマイサーと灯台のレンズを取り替えなければならない。高い灯台の上からレンズを外して入れ替えるのは大仕事である。

(ちょっとくらいなら…たびにでてもだいじょうぶです。)

 それが終わってからアカデミックシティを目指そうと決めた。そして東インド会社のセイロンティを書き、無線室にある大きな世界地図を見ながらアカデミックシティを捜した。アカデミックシティはファロス島とオロッシャ間の航路にはない。しかしぴっぴには貨物船の航路などわからなかった。

「ここにアカデミックシティがあります。」

 場所をつきとめると早速作戦を立てようと、お昼ごはんのサンドウィッチと水筒を持っていそいそと入口の扉を開けた。

「いってきまーす。」

 灯台守に挨拶をすると坂を駆け下りながら考えた。

(レンズはみっつつくったから、さんねんごまでにかえればだいじょうぶです。れんずのおめめがなくならずにすみます。)

 工房から帰るとぴっぴは灯台守やヨルシュマイサーに見つからないよう、荷造りを始めた。

 三日後、天候にも恵まれ予定通り地元の漁師達と共に灯台のレンズを交換する日である。組み立てられたレンズはジャイロスタビライザーに装着される。多少の振動では空中をブランブランと風鈴かモビールのように揺れるだけで傷はつかないようになっている。厳重にもシリコンクロスで包装されたレンズは漁師達に支えられ地下を出ると、ヨルシュマイサーが操縦するクレーン車に装着された。そして港沿いの広い舗装されていない道をのろのろと進んで行く。その後ろから漁師達はハメルンの笛吹き鼠のようについて歩く。皆新しいレンズが灯台に入る日は、お祭りの時のように嬉々としている。この日灯台の上空では風速三十メートルの強風が吹き荒れていた。クレーン車は灯台の下まで到着すると、屋根の高さまでキリンのように首を伸ばし、ゆっくりと取り替え位置まで降ろしていく。ぴっぴと漁師達はテラスに脚立を置き、その上でレンズが降りてくるのを待った。灯台の窓からも漁師が二人顔を出している。普段漁に出ている漁師達は皆赤黒く日に焼けており、タンクトップやボロのTシャツを着て勇ましくレンズを迎える。ぴっぴも空から降りてくるレンズをうまく捕まえようと両手を伸ばす。

「オーライ!オーーーライ!!」

 皆同じように左に右に揺れ動くレンズを目と身体で追う。レンズが風で大きく揺れると

「オーーーーーーーーーーイ!」

 そう叫んでヨルシュマイサーに知らせた。するとクレーンは一旦止まり、風が止むとまた降ろし始める。ぴっぴはそれが面白かったので、レンズではなく漁師達の顔をちらちらと観ては笑いを堪えた。号令の甲斐あって、レンズは無事に取り替える事が出来た。作業が終わると、街の女達が昼食に魚のペーストとバケット、そしてラキアを用意してくれた。皆岬に座り食べ始める。もぐもぐとバケットをほうばっているぴっぴに後ろから若い漁師が話しかけてきた。

「ぴっぴさん、今日はお疲れさますた。」

ぴっぴは声の方へ振り返り、もぐもぐしたまま軽くおじぎをする。漁師はポッペンという名の若者である。

「わしら漁師は船を操縦する事は出来ても灯台のレンズをつくる事はできないんでさぁ。なんでもヨルシュマイサーさんによれば、手を見ればその人がレンズを造れるかどうかわかるんだとか。あん人もだーいぶ歳だす、後継者のことでこまっとった時にば、ぴっぴさんがきてくだすった。本当にありがたい事す。」

 ぴっぴは驚いてぽっと頬が赤くなる。

「ぴっぴはおなかがすいていただけです。おじさんとヨルシュマイサがいろいろおしえてくれただけなので…その…なにも…。」

 ポッペンは悪戯坊主のようにへへへと笑うと照れくさそうに小さくお辞儀をして、再び漁師達のところに戻って行った。ぴっぴはぽかんとしていたが、我に返るといつになく真剣な顔をし呟く。

「ぴっぴはにじいろをつきとめにいきます。」

 隣でラキアをがぶ飲みしていた灯台守がそれに気づく。

「おワ?おまえ、なんかいったカ?」

「わわ…なんでもありません。ひとりごとです。」

 そう言うと、どこからともなく寂しさが込み上げてくる。ぴっぴはバケットを雑多に口に放り込んだ。




 オロッシャ行きの船が出航する日の夜中、ぴっぴは灯台守とヨルシュマイサーに手紙を書いた。

 

 おじさんとヨルシュマイサへ

  ぴっぴはちょっとたびにでます。

  れんずがたりなくなるころにはかえります。

  いってきます。            

               ぴっぴ


灯台守はいびきをかいて眠っている。

「おじさん、、、」

ぴっぴは音にならないくらい小さな声でそう告げ、灯台守の掛け布団を直す。それから静かに灯台の入り口を出て扉を閉めた。眼下に見える埠頭は街灯の灯りだけで静まり返っている。ぴっぴは坂道を下ると足を止め、振り返る。いつもの灯台が遠くに見える。夜空は冷たく澄み渡り、星の一つ一つが七色に光り輝いている。ぴっぴは灯台守が買ってくれた枯れ草色ファーのついたフードをすっぽり被り、星を見つめた。フードが辺りの風を集めてゴウゴウと耳元で音を立てる。寒さか寂しさか、少し目頭が熱くなった。

「おじさん、ごめんなさい。」 

 灯台に背を向け、埠頭めがけて走り出した。


 オロッシャ行きの船は世界最大級の巨大コンテナ船だ。船の中央にある船橋は十階建てのビルになっている。すでに積載作業を終えて、ひっそりと出航を待っている。

ガサッガサッガサッガサッ

 ぴっぴは埠頭の灯りを目指して走る。色とりどりの灯りが走る動きに合わせて動いて見える。途中、立ち止まると肩から下げている双眼鏡を目に当てる。灯台守の机の引き出しから勝手に持って来ていた。倍率が高いのであちらこちら顔を動かしやっと乗り口を確認する。続いて埠頭の入り口を覗くと、二人の警備員が立っている。ぴっぴは双眼鏡を再び肩にかけると、一目散に坂を駆け下り港に向かう。そしてポパイのように筋肉隆々な警備員の目の前まで来ると顔を上げた。

「おほん、こんばんは、このふねはあすシュッコウよていとききました。ついさきほどのことです。カイゾクセンのボウガイムセンがあとをたたないということで、ファロスとうだいのむせんはカイセンをかえました。すでにゴゾンジかとおもったのですが、トウダイモリよりかくにんしてくるようにとのことでしたので、わたくしつかいでまいったものです。」

 ぴっぴが灯台守と一緒に観ていた白黒映画の台詞だった。灯台守は競馬か船の映画しかテレビを観ない。ぴっぴはいつも同じような内容が退屈だったが、灯台守が何度も録画していた同じ映画を観るのですっかり覚えていた。案の定これを聞いた乗組員は目を丸くして驚いた。

「それは知らなかった。これからすぐ本部に伝えます。どうもありがとう。それで、新しい回線は何番ですか。」

 ぴっぴの目が一瞬泳いだ。

「バ…バンゴウはトウダイモリしかしりません。トウダイモリにききにいってください。」

 でたらめを言ったが乗組員は、無線だけに取り扱いが慎重なのだと勝手に解釈し、納得した様子で話す。

「ではこの事を本部に伝えてきます。」

 ぴっぴは敬礼をする。慌てて警備員も敬礼をする。早速警備員はもう一人に事情を伝えた後、港の入り口に陣取っている海上保安庁の建物を目指し走り出した。ぴっぴはほっとして小さくため息をつくと、もう一人の警備員の前まで行った。

「そういったことですので、わたくしはげんざいていはくちゅうのせんちょうにもしらせてきます。のちほどせんちょうとこちらにもどってまいります。」

「了解しました。」

 警備員は敬礼をし、ぴっぴを埠頭の中へと通す。難なく侵入出来たぴっぴはどきどきしながらも埠頭の先に停まっているコンテナ船を目指した。検査室を通り過ぎるとそこはコンテナの巨大迷路になっている。鈍色がかった色とりどりのコンテナの間を駆け足で通り抜ける。

「はぁ、はぁ、いそがなくちゃ。」

タタンタタンタタンタタン…

 乾いた軽い足音がコンクリートに反響し二重に聞こえる。時折街灯の光が直接目に入り眩む。息をきらせながら埠頭に着いた。目の前にはムラなく塗られた美しいセルリアンブルーのコンテナ船が停泊している。船体にお大きくECMAと書いてある。大量に留められているビットのロープにはカモメが船に向かって置物のように並び眠っていた。上方には鼠防止の円盤が夜風でゆらゆらと動いている。ぴっぴは早速先ほど双眼鏡で確認した搭乗口の階段に足をかける。すると背後からうなり声のような音が聞こえる。

「!」

 反射的に振り返る。

「みつかっちゃった…」

 しかし誰もいない。捻っていた上半身を戻し足から方向を向き直すと、コンテナ船の横に三階建ての白いベランダのような船がもう一隻停まっているのを見つけた。肩に掛けていた双眼鏡を取り出すとピントを合わせ、船の甲板を覗く。どきどきして手が震える。階段の手すりに凭れ掛かり固定すると、ベランダの内側に、モップのように長い毛で体中を被われたディの顔が見えた。

「うしさん!!」

 ぴっぴはディもヤクも知らなかった。そんなわけで牛と命名したその生き物に会いたくなった。気持ちの赴くままディの乗っている家畜運搬船の方へ駈けて行く。運搬船の搭乗口はすでに外されていたが祖末な入り口だったため扉は開けっぴろげに開いており、ぴっぴは助走をつけて勢いよく飛び乗った。早速ディのいる甲板へ行くと、通常は五頭も入りそうな小部屋にたった二頭ずつ入っている。彼らはいかにも快適であるといった顔つきで冷たい空気を防ぐように寄り添い寝ている。ぴっぴは柵を乗り越えディのすぐ横まで行くとしゃがみ込んだ。

「そのふかふかなのは、あたたかそうですね。」

 眠っているディのお腹の毛を小さい手でそっと触る。膨らんだり凹んだりするディの腹部はほかほかのお風呂に手を差し込んだ時のように暖かい。飼料と干し草から爽やかな黄緑色の香りがする。ぴっぴは鞄を降ろすと干し草を身体に被せ絨毯のようなディの毛に頭を押し付ける。乳の優しい臭いに包まれると、すぐにすやすやと眠りについた。




「おい、番号が変わったなんて言った奴はどこのどいつだ!」 

 灯台守の怒号で干し草がこんもり隆起すると両側にさわさわと落ちて行く。

「…ごめんなさい?」

 干し草だらけのぴっぴが姿を現す。辺りはすでにうすぼんやりと白んでいた。寝ぼけながらぴっぴは体に付いた干し草を手でぱっぱと払うと、左の肩が何かに触れた。そちらを見ると黒い眉毛のしっかりした一〇歳ほどの子供が座っている。少年は蛍光色の鮮やかな黄色いボロTシャツを着ている。膝の上には最新型のノートパソコンを乗せ、発せられる光で顔が薄ぼんやりと光っていた。

「おはようございます。」

 ぴっぴは少年に挨拶する。少年はじっとぴっぴの目を見て、くすくすと笑う。

「なにかおかしんですか。」

 頭に干し草をつけたまま少年に尋ねる。少年は嬉しそうな顔をして

「あんたさ、君だろう?無線の番号が変わったって嘘の情報流したの。昨日の夜中無線を盗聴しててさ、もうヤポンスカ号もECMA号も大騒ぎだったんだぜ。面白かった。あんた船に乗りたい為にそんな事いったんだろう?僕に言ってくれればもっと穏便に乗せてあげたのに。」

 ぴっぴは状況が飲み込めずにいる。少年のパソコンは尚も無線を盗聴し続けている。

「おかげで保安庁から大目玉だヨ。ぴっぴはどこかにいっちまうし、一体全体どうなっちまってル?きっとあいつが無線の事を仕組んだんダ。」

 灯台守の勘は鋭い。それもそのはずだ。あんなに毎日映画を観ていたのだ。ばれないはずがない。ぴっぴは血の気が引いてゆく。

「どうしよう、おじさんにみつかったらおおめだまです。」

 すると他人の不幸を喜んでいたように見えた少年は

「大丈夫だよ、後二分で出航だ。」

 真面目な顔で告げた。無線はヤポンスカ号船長の声も拾っている。

「生憎こちらの船にその方は乗っていないようです。そもそも船に乗っていない可能性だってある。無事に発見される事を願います。それでは我々の船は出港いたします。」

 ぴっぴはほっと胸を撫で下ろす。灯台守はアルマイトのヤカンで湯をわかしたようにカンカンである。

「あいツ!なぜ俺に相談をしなイ!帰って来たらただじゃおかねェゾ!」

 灯台守は気が動転し喋り続けている。怒り狂う無線の声に混ざり、扉を開ける音がする。船長が無線で別れを告げる。

「それでは。さようならファロス島の皆さん。」

 分厚い汽笛の音がする。船が揺れ、船体が大きく波打ちながら動き出す。無線は尚も音を拾い続けている。

「ぴっぴがいない?」

 声の主はヨルシュマイサーだ。その声を聞くと少年の持っているノートパソコンに齧りついた。灯台守は尚も怒ったまま説明をする。

「あいつこんな紙切れを置いて出て行きやがっタ。」

 ぴっぴはぱちくり瞬きをすると、ヨルシュマイサーの反応をじっと待った。

「それは大変だ。僕は彼女に大切な事を伝えていなかった。」

 少年はパソコンのボリュームを上げた。ノイズ音が大きくなる。ぴっぴは予想外のヨルシュマイサーの言葉に動揺し、目がキョロキョロと短い範囲を動く。

「ぴっぴ君、君がこの無線を聴いている事を願います。実は私は君に隠していた事があります。」

 ぴっぴはノートパソコンの画面に向かって喋る。

「きいております、ヨルシュマイサ!ぴっぴにかくしていることはなんですか!」

 驚いた少年は慌てて伝える。

「これはこちらの声は届かないんだよ。」

 ぴっぴは目を大きく見開き少年の顔を見る。船が水の中を進む音が聞こえる。

「ぴっぴくん、実は、君は…」

 スピーカーに耳を近づけるぴっぴと少年。

「君は……あ………で…………」

 船が港から離れたせいで、パソコンの盗聴がうまく行かない。

「……が……で………なん……。」

 声は遠ざかって行く。

「…ガサガサ…ザー…」

 ついに声は聞こえなくなった。

「なんていってるんですか!」

 ぴっぴは再びパソコンに向かって話しかける。少年は少し同情したようだったが

「無駄だよ。そんなに聞きたいならあんた、船を降りて聞きにいったら」

 悪い冗談を言う。ぴっぴはむすっと下唇を歯で噛んで頬をふくらます。

「そんなこと、できません。」

 鼻の奥から目の方に涙がこみ上げて来る。それを隠そうと少年に背を向け、小さく丸まると目の前にいるディの背中を大雑把に撫でた。少年はノートパソコンを閉じ、ゆっくり立ち上がると柱についている小さな裸電球を灯す。ぴっぴの方をちらっと見ると背中はまだ落ち込んでいる。はぁと小さなため息をつくと話しかけた。

「ねぇ、お腹すかない?」

 ぴっぴの背中は動かない。しかし

「…おなか…すきました。」

 か細い声で答えた。少年ははにかむと小さな桶を持ってきてぴっぴの横に座り直し、ディのお尻をポンポンと叩くと立ち上がらせた。ぴっぴは顔だけを少年の方に向ける。少年はディの毛むくじゃらのお腹の中から手探りで乳首を探り当てるとしぼり始めた。花火のように美しい光が、次々に桶の中へ吸い込まれて行く。

「わぁ」

 ぴっぴは湯気と一緒に桶に吸い込まれて行く乳を見ながら顔を輝かせる。乳はあっという間にすくえるほど溜まった。

「ほら」

 そして桶ごとぴっぴに渡した。

「あんた夜、寒かったでしょ?」

 ぴっぴはそれを受け取ると薄く黄色がかったその液体をふぅふぅ冷ます。少年はぴっぴがしている事の意味が初めはわからなかったが

「え?ああ、飲んだ事ないんだ?そんなに熱くないよ。そのまま飲んでみなよ。」

 ぴっぴは顔を上げるとうんうんと頷き、顔を桶に突っ込む。そして桶ごと顔を持ち上げ飲んでみた。ディの乳は少しコクが強い。

「ふぅ…」

 一気に飲みきり幸せな気持ちになる。桶を置くと少年の顔を見た。

「むせんきかせてくれてありがとうございました。わたしはぴっぴといいます。」

 少年はぴっぴがケロリと機嫌を直したので少々面食らったが

「うん、昨日から無線で皆ぴっぴぴっぴと言うので、名前はよく知っているよ。僕はアンドリュー。あんたよりは歳下だけど、なんかそんな気しないな。」

それを聞くとぴっぴはきょとんとする。

(としした?)

 そんなはずはない。

(このひとぴっぴがれいぎたたしいので、とししただとおもっているのですね。)

 悪い気はしないので、敢えて訂正することはよそうと決めた。そしてすまし顔をしてみせる。

「ところであんどりゆーさん、あなたもこのふねにもぐりこんだのですか。」

 アンドリューはそれを聞くとふっと吹き出して次に大笑いした。

「とんでもない、僕はこのディ達の世話係として船に乗せてもらっているんだ。ちゃんとした仕事だよ。」

ぴっぴは恥ずかしくなり、干し草を毟りだす。そして動揺しながら更におかしな事を口走る。

「…それはしつれいしました。ヨ、ヨルシュマイサというのはぴっぴのオシショさんです。きっとぴっぴがすきだとむせんでいいたかったんだとおもいます。」

 アンドリューは驚く。

「あんた変わってるねー。そんな恥ずかしいこと、わざわざ無線でいうかよ。」

 ぴっぴはアンドリューの言葉に傷ついた。

「そ、それじゃぁぴっぴのこいははずかしいものなのですか!」

 アンドリューはまた意地悪そうに笑う。

「好きだったのはヨルシュマイサじゃなくて、あんただろう。」

 ぴっぴはヨルシュマイサーが工房で微笑む姿を思い出した。そして頭をぶんぶんと振る。「…すきではありません。」

 素直にはなれない。

「それはそうとあんた、勝手に乗った事は黙っててやるから、その代わり手伝ってくれよ。」  

 アンドリューはさっさと話題を替え、淡々とした口調で話した。ぴっぴはふてくされ顔でアンドリューから飼料袋を受け取る。重いものを運ぶのは慣れている。うんさうんさとディの近くまで行くとどさどさと飼料箱に入れる。黒い巨大モップがたった二頭、こぞって飼料を食べあさる。

「ぴっぴはアカデミックシティにいきたいんです。」

 鍬で干し草を整えていたアンドリューはちらりとぴっぴの方を見る。

「…そう、それはいいね。丁度このディ達も、アカデミックシティに行く所だよ。」

 ぴっぴはそれを聞くとディの顔をまじまじと見る。眠そうだ。

「…アカデミックシティがどんなところか知ってるのかい?」

 アンドリューは、いつになく真剣な顔でぴっぴに尋ねる。

「あたまのいいひとがたくさんいるところです。」

 ぴっぴの大雑把な答えにアンドリューは拍子抜けする。

「はぁ、まぁ、間違ってやしないけど。僕はよく船から荷物を届けに行くから、何度か行った事があるよ。とにかく凄い所だよ。なんでも僕の父さんが若かった頃,学者は世界中に散らばっていたらしいけど、アカデミックシティ構想が出来て皆一所に集まって研究開発をするようになったんだ。」

 ぴっぴは話を聞きながら飼料袋を覗き込む。

「世界中に研究者を散らばらせておくと、研究に必要な本や機材やシステムをいくつも購入しなきゃならない。それは非効率的だという事になったんだ。だから皆同じ場所で研究をしているらしい。テーマパークと同じだね。」

 ぴっぴはそれは別の星の話のようだと思った。

(このうしさんたちも、ぴっぴのようににじいろのことをききにいくのかしら。)

 そしてディの顔を見つめる。

「このディはファロス島の高地でしか育たない。でも世界中で育てる事が出来るようになれば、乳からバターを確保できるし食用肉としても非常に高い栄養価が期待できるんだ。そうなれば世界中の食品産業が潤う。その為にアカデミックシティで品種改良されるんだよ。普通家畜運搬船がこんなに豪華な使い方をされることはないんだ。このディ達は大切な実験材料だから、こうして一つのスペースに五頭乗れる所にたったの二頭しか乗っていないんだ。」

 ぴっぴは目の前の動物がディである事を初めて知る。

「ディさんはおきゃくさんですか。」

 ぴっぴはアンドリューの難しい話が半分も理解出来なかった。そこで思いついたことを話す。

「お客さんじゃないよ。実験が失敗すれば死んでしまうかもしれないからね。」

 アンドリューの答えにぴっぴは口をぱっくり開ける。

「そんなあぶないところなのですか。アカデミックシティは。」

 アンドリューはぴっぴの勘違いを正そうと言葉を探す。

「いや…危ないんじゃなくて…人の役に立つ事を考えてくれているんだよ。」

 ぴっぴは増々意味が解らなくなる。落ち着きをなくし飼料袋の周りをぐるぐると回りはじめた。それを見たアンドリューは話を変えようと質問をした。

「ところであんたは何をしにいくの、アカデミックシティに。」

 ぴっぴはぴたりと足を止めると、鼻息を吸い込みアンドリューに自信たっぷりに話した。

「あたまのいいひとに、もののはじっこはにじいろにひかるのをきいてみたいのです。」

 アンドリューは言葉を詰まらせる。

「きっとそんなにあたまのいいひとたちなら、ぴっぴのふしぎもこたえてくれます。」

 嬉しそうに語るぴっぴに、アンドリューは俯きながら答えた。

「…ああ、きっと、きっとそうだろうね…。」

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