第四章 レンズ工房
目を覚ますと辺りはまだ薄暗かった。表が何やら騒がしい。もぞもぞと寝袋のジッパーを開け、様子を伺いに入口の扉を開ける。眠い目をこすりながらぐるりと灯台を半周して岬から桟橋の方を眺めると大勢の人が蟻ほどの大きさで見える。どこから現れたのか昨夜灯台のテラスから見た小型漁船の殆どに二、三人ずつ人が群がっている。女達は漁に使う網を積み、ビットに繋いであるロープを外している。波止場には夜見えなかった大きな魚市場があった。ゴム長を履いた人々がフォークリフトを運転したり、発泡スチロールの箱を運んだり慌ただしく出入りしている。用意の整った漁船は次々と薄暗い砂漠を滑るように出航してゆく。ディーゼルエンジンの小気味よい音と共に船の中央部についた煙突から薄黒い煙がゆらゆらと立ち上る。漁船は入口の赤白灯台の間を通ると徐々に小さくなってゆく。
「ふわぁ…」
ぴっぴは大きな欠伸が出る。昨日食べた烏賊はこの漁船が釣ったものだろうか。寝ぼけながらぼんやりその光景を見届ける。ふと灯台を見上げると、灯台守がレンズの所にいるのが見えた。部屋に戻ると、丁度灯台守も螺旋階段から降りて来た。
「おはようございます。」
灯台守は返事もせずそのまま表に出て行く。ぴっぴはヒヨコのように後について表へ出る。灯台守はベコベコになったブリキの桶にドラム缶から温泉を汲むと、竃の横に立てかけてあった鉄板の網の所まで持って行き、お湯をかける。次に鉄板に付いていた魚の皮などを亀の子タワシで丁寧にこそげ落としてゆく。ぴっぴは横でしゃがみその姿を見つめていたが
「おい、おまエ、テーブルの上からやかんを持ってこイ。」
と指令が出たので、うんうんと頷いて家の中へと戻る。テーブルの上には灯台守が言った通り、ペンギン体型で群青色の鉄のやかんが置いてある。手に取り再び灯台守の所まで戻る。網はすっかりぴかぴかになっていた。竃に置いて下から炎で乾かすとパチ、パチと空気が弾ける音がする。ぴっぴがやかんを持ったままつっ立っていると灯台守は網にオリーブオイルを塗りながら話しかける。
「お前、コーヒーは飲めるのカ。」
ぴっぴは一寸考えたが
「ぴっぴはこうちゃがいいです。ひがしインドかいしゃのセイロンティがおいしいです。」
と答えた。灯台守は振り返り苦虫を噛み潰したような顔で
「なんだそれハ。そんなものはここにはなイ。」
と吐き捨てるように返す。それを聞いたぴっぴはがっかりして下を向き、しょぼしょぼとお湯を汲みに行く。灯台守は構わず魚を焼き始める。ぴっぴは戻って来ると網の空いている所にやかんを置いた。部屋に戻り、間もなく朝食の準備が整った。ダイニングテーブルにぴっぴと灯台守は向かい合って座る。二人とも無言で食器がカチャカチャと鳴る音しかしない。香ばしく焼けた魚をバケットに乗せて食べる。もぐもぐよく噛んでいるとバケットはぴっぴの口中の水分を奪った。やがて口の中はカサカサになり、飲み物で喉を潤したかったが生憎コーヒーしかない。結局やぁっと唾と一緒に丸呑みをした。ごくっと飲み込むと喉につかえそうだった。
食事を終えると灯台守の方に中身が入ったままのコーヒーカップを押してよこした。中を見た灯台守は鼻から溜め息をつく。ぴっぴは作ってもらったのに悪いなと思いつつ、ちらちらと灯台守を見ながらもお皿についたソースをバケットで拭き取って口に放り込む。もぐもぐしていると
「この港には年に二回、九月と三月にオロッシャからの貨物船が着ク。その船は世界中のあちらこちらで荷物を積んだり下ろしたりして最後にこの島までやってくル。きっとおまさんが言っているヒダリビンタ会社の生存ティーとやらも卸しているに違いなイ。後で聞いてみてやル。五十箱もあれば次の船が来るまで間に合うだろウ。大事に飲むんだゾ。」
といった。それを聞いたぴっぴの顔はキラキラと輝く。すかさず
「ヒダリビンタではありません、ひがしインドかいしゃのセイロンティです。あとメープルシロップもほしいのです。」
と返した。灯台守は聞いた事のない言葉に混乱した。しかしすぐさま首を横にぶんぶん振ると理解するのを諦め
「そこに紙と硝子ペンがあるから書いておケ。俺はその紙を船員に見せる。昼になったらレンズ職人が来るから、遠くへ行くなヨ。それまでは勝手にしていロ。」
そう言うとキャビネットの上にある硝子ペンとメモ帳を指差した。ぴっぴはうんうんと頷き、食べ終わったお皿を渡す。灯台守はそれを受け取ると自分の皿と重ね、さらにカップをその上に乗せ外に出る。少し離れたゴミ捨て場まで行くと、魚の骨をペンキの空き缶に入れ、隣の麻袋に入っている土をスコップですくい上にかける。竃に戻るとポリタンクに汲んでおいた水を食べ終わった皿にかけ、黙々と洗い始める。食べ残しを狙って海鵜が灯台守の周囲に集まってくる。ぴっぴはその様子を窓から確認すると早速硝子ペンを手に取る。
「とおめいなのにつかめます。」
その形状をまじまじと見た。オレンジ色のペン先はペリカンの嘴型をしている。ぴっぴとペリカンは一直線に見つめ合う。そしてペン先にブルーブラックのインクをつけるとメモ用紙に文字を書き始めた。
正午になると夜中の風が嘘のようにぴたりと止んだ。ぴっぴは暇そうに椅子に背中を乗せ、手を床につきながらだらりとしている。逆さまに無線室を眺める。時折、漁船から連絡が入るとガサガサの声と共に赤いランプが点灯する。灯台守は後片付けを終えると街へ行き、なかなか帰ってこない。頭に血が上って来たので腹筋を使って起き上がる。
「そうだ。たけのこをゆでなくちゃ。」
早速近くにあった競馬新聞を床に敷き、皮を一枚一枚花びらのように剥いでは新聞の上に置いてゆく。ふと、新聞の日付がぴっぴの目に入る。
九月十日
ぴっぴが筍のお老人と別れてから三ヶ月以上経っていた。おかしいなと思いながら筍の皮で髪の毛を二、三度いじった。全ての皮を取りきると表に出て三角形の筍をグラグラと湧いている鍋の中にトップンと入れる。ぴっぴは茹でている鍋をしゃがんでじっと見つめている。鼻の頭が熱い。
「あちち…そうか、これでおじさんははながあかくなっちゃったんだわ。」
立ったり座ったりしながら筍が茹で上がるのが待ち遠しい。そうこうしていると、遠くの方から足音がする。ぴっぴはそれに気づくと立ち上がり、トングを片手に持ったまま足音のする方向へ目を移す。陽炎の向こうに黒いマントを被った人物が見える。まるでムスリムの女性のように、肌が目の周りしか見えない。その目ですら、右目を黒い眼帯が隠している。青空に黒い穴を開けているように、黒い人は灯台の方へと近づいて来る。側まで来るとぴっぴはその人物の服が気になった。黒い衣装は思いのほか薄い生地で出来ている。何枚も重ね着をしているようだ。動きに合わせてさらりと翻り、裾が透けると深い紫色を感じる。きっと天然の染料で染めたものなのだろう。そんな事を考えているうちに男は目の前までやって来た。それまでののどかな空気は一瞬にして消え去り、トングの先まで緊張した。五十過ぎであろうか、不気味なオーラを纏っている。男はギロリとぴっぴの顔を覗き込む。ぴっぴの目を見、耳を見、鼻を見ると、トングを掴んでいる手を見た。
ゴボゴボ…ジュー…
鍋が吹きこぼれてしまった。ぴっぴは慌てて筍の元へいくとトングでザルに放り投げ、鍋の熱湯を火にかける。筍のほの甘い香りと共に湯気がわっと広がる。真っ白になった視界が色を取り戻すと男の姿がない。慌てて振り返ると、いつの間にか帰って来ていた灯台守と扉の前でひそひそと話をしている。灯台守は顔が隠れる程の大きな紙袋を持っていた。
「セイロンティ!」
嬉しくて灯台守の元まで駈けてゆく。男はそれに気づかず尚も灯台守に話続けている。
「彼女は…」
そう男が話しかけた時、灯台守はぴっぴが近づいてくるのに気がついた。
「おじさーん」
灯台守は満面の笑みで走りよるぴっぴに咄嗟に持っていた紙袋を投げつけた。
「ぎゃん」
セイロンティの箱が周りに散らかる。ぴっぴはそのうちの一つを小さな手で拾い上げると両手で大事そうに持ち
「これ、のんでもいいですか。」
と尋ねた。灯台守は相変わらず男の話を聞きながら
「ああ、大事に飲めヨ。」
と返した。それを聞いた男もぴっぴの方をちらりと見る。ご機嫌で落ちた紅茶を紙袋に詰め直すと、竃まで行き再び火を入れようとする。しかし火は中々つかない。見かねた灯台守が新聞紙と薪で火をつけてやる。男はその様子を黙って後ろから見つめている。
お茶の準備が整うと、改めて男が紹介される。
「この人はかれこれ四十年近く灯台のレンズカットをしているヨルシュマイサーだ。」
ヨルシュマイサーは被っていたマントを取るとテーブルの上に置いた。灯台守とは対照的にアッシュ色の綺麗にカットされた柔らかい髪の白人である。ぴっぴは不気味なのはマントだと思った。
「君に、僕の仕事を覚えてもらおうと思いまして。」
ヨルシュマイサーは紳士的に話しかけた。しかしぴっぴには腑に落ちない事があった。
「とうだいのレンズならもうあります。」
ヨルシュマイサーはぴっぴの質問を聞くと見えている方の目で優しく笑い、答えた。
「いい質問ですね。そう、普通の灯台は一旦レンズをカットしてしまえば半永久的に使い続ける事が出来ます。でもそれは普通の灯台の話です。ところがこのファロス島の灯台はそうは行かないのです。君が今いる灯台は普通の灯台とは違い、蓄光方法がちょっと特殊なのです。」
ここがファロス島だということを初めて知った。そして梟のように首を傾げた。はて、一体どうやって動いているのか?ヨルシュマイサーはポケットから煙草の葉を取り出すと安物の紙にさらさらと乗せて巻きはじめる。
「この灯台は、レンズが集める太陽の光で発電しているんですよ。」
ぴっぴはわかったような、わからないような顔をする。電気ならこの部屋にもあるのに何故そんな面倒な事をするのだろう。考えれば考えるほどわからなくなり潰れたみかんのような顔をする。
「昼間のうちに太陽の光を内側のレンズが集めておくのです。集められた光は熱エネルギーとして蓄えられ、夜になったらそれを再び光に変換して遠くへ飛ばすといった構造なのです。ソーラーシステムとよく似ているでしょう。」
ぴっぴはいよいよわからなくなる。ヨルシュマイサーは紙をペロリと舐めて留めると、マッチで煙草に火をつける。
「ぴっぴ君、難しいかい。簡単に言うとね、灯台は生きているという事ですよ。一年に一度、目を交換してあげないと動けなくなってしまうのです。遥か遠くまで光を飛ばさなくてはならない。それには昼間のうちにたくさんの太陽の光を蓄えなくてはならない。そこでレンズを正確にカットする高い技術が必要なんです。」
そう言われるとぴっぴなりに理解した。灯台は友達であり、昨晩も友達の腹の中で眠ったのだという解釈に至った。
「そして一年間レンズを灯台に装着していると傷や埃や雨で表面が汚れてしまう。傷のついたレンズではうまく光を蓄え遠くへ飛ばす事が出来ない。だから毎年交換するのです。」
ぴっぴは天井を見上げ、その先にあるレンズの事を思った。そしてヨルシュマイサーの方へ向き直る。
「めをかえられるのはべんりです。」
それを聞くとヨルシュマイサーは再び左目で微笑んだ。
「では早速レンズをカットする工房へとご案内しましょう。」
ファロス島は小さく飛び出した半島ではあるものの、海を挟んで他の貿易港から直線距離で最も近い位置にあり、鉄道も埠頭まで通っている事から漁港、貿易港として発達している。ぴっぴが昨晩見つけられなかった街は灯台を下りパビーチラソルの砂浜とは反対方向にあった。街では朝港にいた女達が楽しく歓談したり、窓から向い側の窓まで伸びているロープに洗濯物をかけたりしている。白い煉瓦造りの家に挟まれた細い路地は全て舗装され、石膏のように白い石畳が敷き詰められている。通りには小さい店が軒を連ね、港から仕入れた品物が所狭しと並んでいる。石鹸屋やマッチ屋、方位磁石屋や大砲屋など、ぴっぴは一つ一つの商品に目移りしながらぐずぐず歩いている。一方ヨルシュマイサーは歩くのが速い。
「こんにちは、こんにちは。」
ぴっぴは辺りの人にオウムのように繰り返し挨拶をしながらついて行く。細い路地の間を抜けると大通りに出た。通りの中央に線路が埋め込まれているため、車は段差をバウンドしながらのろのろと走って行く。踏切はなく、電車は建物の間から突然現れる。レモン色の小さな車両だ。
「おもちゃみたいでかわいいです。」
ぴっぴは電車に向かって手を振る。ところがかわいい先頭車両の後には厳つい貨車が延々と二十両も連なっている。
プーン…ゴォアゴアォゴワゴワゴワゴワ…
貨車の轟音に驚いたぴっぴは両手で耳を塞ぐ。通り過ぎたのを確かめ耳から手を離すと側を歩いていたふとっちょの奥さんが話しかけて来た。
「だいじょうぶかいおじょうさん。あれはね、港で降ろした石炭を運んでいるのよ。」
ぴっぴは石炭が何かを知らなかったが、丁寧に教えてくれた奥さんが艶のよい焼きたてパンのような顔をしていたので嬉しくなる。
「そうですか、それはごしんせつにありがとうございます。」
奥さんも微笑んで答える。
「どういたしまして。」
そう言うと長いスカートの膝より少し上を摘み、線路を大股で跨ぎ通りの反対側へ歩いてどこかへ行ってしまった。気づくとヨルシュマイサーの姿が見えない。慌てて線路沿いの道を行くと二本目の曲がり角の向こうに黒い服を見つけた。こちらを振り返り待っている。
「すみません。」
ぴっぴは少し安心して追いかけてゆく。追いつくより前に再びヨルシュマイサーは再び歩き始めた。賑やかな路地を曲がり、くねくねと曲がった細い道を進む。突き当たりを右に曲がると、ヨルシュマイサーがそこで立ち止まっているなどとは思いもよらず、全力で背中に激突した。
「はにゃ…」
マントが柔らかい素材だったので大して痛くもなかったが、突然羽虫の大群に襲われたように驚いた。ゆっくり目を開けると、広場を挟んだ奥に巨大な建物が見えた。かなり古い造りの教会堂である。ファサードにはアラブ調のはっきりとした幾何学模様のモザイクストライプが施してある。入り口のアーケードは分円アーチ型をしており、真ん中の一際大きなものを中心に左右に五つずつ続いている。内部の様子は暗くて見えない。顔を見上げると、切り妻部には落ち着いた色調のモザイクタイルが敷き詰められ、四人の子供が小舟に乗り船を漕ぎ、釣りをしている様子が描かれている。教会堂横には背の高いシチリア調の鐘塔があり、直方体の建物上部には陶器のキャンディ壷のような形状の装飾が、鐘の入った一際大きなものを中心に各コーナーに計五つ配置されていた。キャンディ壷にはレモン色と緑色の交差連続アーチが施されており、美しいマジョリカタイルがリズムを生み出している。再び教会堂の入口を見ると人が入って行くのが見える。
「さぁここですよ、ぴっぴ君。」
見惚れているぴっぴをよそにヨルシュマイサーは構わず広場に向かい歩き出す。少し遅れてついてゆくとヨルシュマイサーは広場の中央で足を止め、しゃがみ込んだ。ぴっぴもすぐに追いついた。
「おなかでもいたいんですか。」
ヨルシュマイサーはにっこりと微笑み地面を指差した。そこには灯台のピクトグラムが掘られた丸いマンホールがある。
「ここが入り口です。」
ヨルシュマイサーはしゃがんで蓋を回す。よく見ると蓋自体がダイヤル式の鍵になっている。マンホールの外周には方位が十二個、時計のように刻み込まれていた。灯台の方角に印を合わせると鉄のほぞがぴたりとかみ合う。南を示すSの位置についている丸い輪っかの取っ手を持ち上げると、マンホールは北を示すNを軸に開いた。鍵の下には同じ大きさで青銅製の内蓋があり、開けると中は暗闇になっている。固唾をのんで穴を見つめているぴっぴには目もくれず、ヨルシュマイサーは中へ入って行った。どうやら内部は階段状になっているようだ。一番下まで辿り着くと壁についているマグライトを手探りで見つけ、点灯する。暗闇の一部がぽっと鈍く光った。
「さぁ君も降りておいで。」
洞窟のように声はくぐもって聞こえる。ぴっぴも続いて中に入る。入って来たのを確認するとヨルシュマイサーは蓋の内側からぶら下がっている紐を引く。
空気が押し出される音がすると空に開いていた穴は塞がり、自動的に鍵がかかった。ぴっぴは中々一番下に辿り着けない。階段を下りながら、乾いた空気が冷やされて行くのを感じる。やっとヨルシュマイサーの所まで辿り着いた。
「そとのいりぐちからはいらないのですか。」
声がグワングワン反響して気持ちが悪い。おばけに取り憑かれているような気分になり、辺りを見回した。
「あれはね、礼拝する人のための扉なんですよ。我々レンズ職人は長い間水晶の製造方法を地下で秘密裏に伝え続けてきたのです。」
ヨルシュマイサーは階段に背を向けマグライトで照らしてみせる。目の前には天井の高い地下道がどこまでも続いていた。所々に大きな横穴が見える。
「君は水晶と言えば天然だと思っているでしょう?ところがファロス灯台の水晶は皆人工的に出来ているのです。二酸化珪素を特殊な巨大バーナーで水晶にする。その技術は長い間地下のカタコンベだけで守られてきたのです。」
ヨルシュマイサーは歩き出す。
「どうしてそれをみなさんにおしえないのですか。」
続けてぴっぴも歩き出す。
「どうしてって…人工のものというのは、そんなに必要ないからですよ。我々の先祖はレンズを造るためだけに結晶の技術を踏襲してきました。無目的に知識だけを広めても、使う者に技術と精神がなければ、決していい事などありはしないのですよ。」
ぴっぴにはその意味がよくわからなかった。
(いじわるしないでおしえてあげればいいのに。)
少し進むとヨルシュマイサーは右を向き横穴へ入る。マグライトに照らされた横穴は床も壁も全て舗装されており、そこには直径十メートル程の巨大なレンズが一つ、レコードプレイヤーのような形状の機械に乗せられている。
「昔ここは納骨堂だったのです。我々の祖先は火山の噴火で消え去った別の文明の後、この地に住む事にしました。以前の文明で元々地下水道として掘られた穴の一部を利用し、ここに棺を保管することにしていたのです。現在はこの納骨堂を利用する人はありませんが。そこでこの教会堂の下部分だけを拡張し、レンズ工房として使用させてもらう事にしたのです。各部屋に一つずつ照明をひいてあります。他の部屋も覗いてご覧なさい。大抵の部屋は入り口のすぐ横にスイッチがありますから。」
そう言うとヨルシュマイサーは入り口のすぐ横にあったスイッチを上げる。室内がアンバーに彩られた。ぴっぴはうんうんと頷くと、他の穴も観てみる事にした。パチリと電気をつけると、どの部屋にも同じようにレンズが機械に乗せられていた。
「おめめがたくさんあります。」
ぴっぴはヨルシュマイサーが見ていないのを確認するとレンズをつついてみた。ひんやり冷たい。元の部屋に戻るとヨルシュマイサーは部屋の奥で何かしている。レンズ越しにへなへなと動いていた。ぴっぴはレンズにぶつからないように慎重にヨルシュマイサーの所へ行く。ヨルシュマイサーは機械のコックピットに座る。
「これはなにをするきかいなのですか。」
そう尋ねるとヨルシュマイサーは手袋とマスク、そしてゴーグルを手渡す。
「灯台のレンズはフレネルレンズと言います。普通のレンズをサンプリングしたものを使うんです。その方が薄くて軽い。しかしそれ故切り抜いたレンズ同士のちょっとしたズレから光を正確に飛ばす事が困難なのです。ファロス灯台のレンズは一度原寸のレンズを造った上で、それをサンプリングします。だから正確に曲線が出せるんです。ただ、一ミリ、歯の部分だけはけられてしまいますけれど。君にはこれをカットしてもらいます。これは細かいダイヤモンドを吹き付けてカットする機械なんです。」
ぴっぴはぐっとヨルシュマイサーの言った事を頭の中で反芻した。しかしよくわからないので取り敢えず同じようにゴーグルや手袋、マスクを装着すると隣に座る。
「いいですかぴっぴさん、まずカットする角度を決めます。」
そういうとヨルシュマイサーはそっとぴっぴの手を取り、二人羽織のように操作卓に幾つもある中の一つのボタンを押す。ぴっぴは胸がどきどきして頬が赤くなった。ボタンを押すと巨大な機械音と共にレンズはゆっくりと傾斜する。ボタンから手を離すと傾斜は止まった。
「角度が決まったら次はカットする形を選びます。これが楕円です。これが直線です。」
ふむふむと一生懸命平静を保とうと頷く。それにしても、なぜヨルシュマイサーは自分の手をとって説明しているのだろう。言ってもらえば解るものを。
「ボタンを押すとレーザーのアタリ線がレンズに照射されます。」
そして楕円のボタンを押すと、生卵をフライパンに乗せた時のように潤潤としたレンズに赤いレーザー光が照射される。
「もっと円周を大きくしたい場合はボリュームつまみをぐるりと回します。」
ヨルシュマイサーは歌うようにぴっぴの手ごとつまみを回す。
「こーのくらいでーすねー。」
レーザーの円弧は大きくなる。
「アタリが決まったらこのプラスチックのカバーを開け、中にあるボタンを押します。」
二人はボタンを押した。モーターが高速で回転する巨大な音と共にレンズに蜘蛛の糸ほどの細いダイヤモンドが吹き付けられ、つるりとした表面に切り込みが入る。その粉塵がゴーグルに付着する。ぴっぴは形を与えられてゆくレンズをじっと見つめている。レンズの端まで刃が通ると、ヨルシュマイサーはやっと手を離した。少しほっとする。
「いつもこれをやればいいですか。」
ぴっぴはヨルシュマイサーに質問する。ヨルシュマイサーはぴっぴの目を見て微笑むと
「もう一度、カットする前のレンズを観てごらんなさい。」
と言った。そしてコックピットから降り、ゴーグルや手袋を外すと別の横穴に向かって歩いて行く。そこで慌ててぴっぴもゴーグルと手袋を外し、後からひょこひょこついてゆく。隣の部屋の灯りを点けるとしゃがんでみたり、上から覗き込んでみたりしてレンズじっと見つめる。しかし、これといって変わった所は見られない。
「…ふつうです。」
不安げな顔でヨルシュマイサーの顔を見る。
「本当にそうですか?」
ヨルシュマイサーは意味深な顔をしながら首をかしげるとぴっぴの背中を押し、レンズに触るか触らないかの距離で肩を抱くと、そのまま前のめりになると右手をとってレンズに触らせた。
(つめたい)
レンズの上を二人の重ねた手がゆっくり滑る。ぴっぴは小さな手にレンズの冷たさとヨルシュマイサーの体温を感じ、頭の中がぐるぐるする。手はゆっくりとレンズの半径を端に向かい撫でて行く。ヨルシュマイサーの鼓動が身体を伝う。ところがレンズの途中までくるとぴっぴは手を止める。
「くぼんでる。」
魔法が解けた。ヨルシュマイサーは手を離し、ぴっぴは振り返る。ヨルシュマイサーは下を向いたまま一瞬口を真横に伸ばし、微笑んだかと思うとまたすぐ元通りの顔になる。「我々は水晶を製造する技術を持っています。しかし製造する際に形態に精度を持たせる事までは不可能です。だから表面を荒ずりしても凹凸を完全に消し去る事は出来ないのです。それを踏まえた上でレンズにするには、微妙な角度でカットしなければならない。そうでなければ光をうまく集められず遠くまで飛ばせないですからね。」
つまりレンズは単純作業でただボタンを押せばカット出来るという訳ではなく、その都度カットする角度や削り方を変えなくてはならないという事だった。ヨルシュマイサーはぴっぴの顔を見ると再び得意そうに微笑んだ。
「ずいぶんむずかしいことをするのですね。ぴっぴにできるでしょうか…。」
ぴっぴは難しい顔をする。ヨルシュマイサーはぴっぴの不安をよそに、壁に立てかけてあった顔ほどもある巨大なブロアーでレンズの上についた埃を吹き飛ばし始める。掃除が終わりブロアーを再び壁に立てかけると、辺りはしんと静まり返った。ぴっぴは目の前のレンズを見つめ、じっとしている。ヨルシュマイサーは烏が毛繕いをするようにマントの位置を整える。
Sanctus, Sanctus, Sanctus…(聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな)
男性の低い声で歌が聞こえる。
「あれ?」
ぴっぴは顔を上げ、頭上をぐるぐると見回す。
「…おかしいな。」
空耳だと思い前に向き直る。
Dominus, Deus Sabaoth…(万軍の神よ、主よ)
再びぴっぴは天井を見上げる。
「ヨルシュマイサ…。」
不安になってヨルシュマイサーの顔を見る。ヨルシュマイサーは天井を見上げると、ぴっぴのすぐ横を通り回廊へ出る。そして微笑むと天井に人差し指を向け、こう言った。
「折角なので、教会堂の中も観て行きましょう。」
Cred in unum Deum,Patrem omnipotentem,factorem caeli et terrae visibilium omnium et invisibilium.
(私は唯一の神を信じます、全能の父を信じます、天と地と、見えるものすべてと、見えないものをつくった方を。)
教会堂では明日行われる洗礼に先立ち、聖歌隊によるミサの練習が行われていた。ぴっぴは身廊の一番後ろにぽつりと佇む。内部はロマネスク調の三廊式で、祭壇に向かって左右に幾つも大きな柱が続いている。聖歌隊の歌はその高い天井の全てに反響し、母親の子宮の中で聴いた声のようだ。窓は側廊壁と外壁上方に一列、背丈程の高さの外壁に一列付いており、透明石膏越しに夕方の柔らかい光が神秘的な空間を演出している。祭壇中央にはギリシア神話の海の女神、クリオがラッパと本を携えている。ヨルシュマイサーは遅れて教会堂に入ってきた。
「明日は日曜ですので、一月ほど前に生まれた乳飲み子の洗礼が行われるのです。」
ぴっぴはクレドの心地よい響きにうっとりしながら、聖歌隊席を見つめた。
Deum verum de Deo vero.Genitum,non factum,consubstantialem Patri
(光から発した光であり、本当の神から出た本当の神であって、作られることなく、生まれ出て…)
「みなさんにおいわいしてもらうのですね。」
ヨルシュマイサーはぴっぴが少し羨ましそうな表情を浮かべている横顔をじっと見つめている。
翌日からぴっぴは毎日カタコンベでヨルシュマイサーとレンズをカットした。仕事に慣れてくると、ぴっぴはカーブジェネレーターの使い方や、研磨、コーティングの仕方まで、レンズ制作全ての行程を覚えた。そしてすでに使用した後のレンズを再度バーナーで溶かし、水晶にする技術も教えてもらった。
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