20年前の夏

 その夏はとても暑い夏だった。気温は連日40℃を超えていた。今では当たり前の気温だが、当時はまだ温暖化の影響が目に見えるようになった始まりのころで、日々記録を更新していく熱波について伝えるニュースには、まだ驚きのニュアンスが残っていた。

 とはいえ、サンフランシスコ・マウンテンビューにあった国際人工知能標準化機構(IOSAI)の研究所内は空調が管理されていて、建物の中にいる限りそんな暑さとは無縁だった。人気のなさとあいまって寒々しさを感じるくらいの通路を歩いた私は、直属の上司であるアラン・ラブレスのオフィスの扉を叩いた。

 金髪を短く揃え、無精髭を生やした52歳のアランは、IOSAIのエグゼクティブティレクターを務める前は生粋のプログラマだった。彼は私を部屋に招き入れると、エンジニアらしい率直さで話を始めた。

「君が提出してくれたレポートに目を通したよ」

 私はその数日前に、IOSAIが取り組んでいたGSAIに関する重大な懸念を伝える報告書をアランに提出していた。

「GSAIにはバッグドアがある。君はそう言うんだね」

「はい。GSAIには共通データベースへとつながる経路とは別の経路で、通信を維持し続けるコードが埋め込まれています。特定のアカウントから送られてきたコマンドを優先的に実行するコードです。巧妙に隠されてはいましたが——」

 私の話の途中でアランは立ち上がり、窓際へと歩いて行った。窓の向こう側には広場が広がっていたが、熱波の中で植物たちはしおれていた。

「この件について、君以外に知っている人間はいるか?」

 アランは窓の外を見つめて言った。

「いません。今はまだ、私の中にとどめています」

「このようなことをする人物について心当たりは?」

「ありません。改訂履歴を追うと、私がここに来る以前に組み込まれたコードのようです。かなり初期の頃からあるものかと」

 GSAIは世界標準のAIを作るプロジェクトだった。当時はまだAIが一部のプラットフォーム企業に独占されていた。市場原理でそういった企業にデータが集中し、AIの格差が広まるのは仕方がないにしても、問題だったのは独裁国家のAIの台頭だった。独裁国家は持ち前の全体主義のもと、強権的に国民のデータを収集し、そのデータでAIを育てていた。その成長の速度は凄まじく、自由主義の賜物であるプラットフォーマーのAIを追い越すのも時間の問題だった。

 そこで考えられたのが標準AIの構想だ。独裁国家のAIの成長が著しいのは、強権的に一箇所にデータを集め、活用できるからだ。一方で民主国家では、AIを活用したいのはどの企業も組織も同じでも、各自で集められるデータ量は限られていて、まともにAIを育てることができていなかった。

 そこで民主国家が中心となり、標準のAIを開発し、各々の企業に提供するプロジェクトが動き出した。標準AIが取得したデータは共用のデータベースに保存される。一箇所に集積されたデータは、標準AIをさらに進歩させる糧となり、好循環が生まれる。

 一箇所にデータを集中されるという点では独裁国家のAIと似たようなものだったが、標準AIを採用するかどうかは各企業・組織に任されているということで、GSAIは全体主義的なイメージを回避していた。プラットフォーマーにAI技術が集中していることが問題視されていた頃で、独裁国家との対立がなかったとしても、そういった独占状態に風穴を開ける活動としてGSAIは期待されていた。

 そんなGSAIに特定のアカウントからのオーバーライトを許すコードが見つかったのだ。明るみになれば独裁的で全体主義的なイメージがつくことは避けられず、大きなスキャンダルになることは明白だった。

 長い沈黙の後、アランは大きく息を吐き出してから私のほうを振り返った。

「チャンくん。君は中国の出身だったね」

 突然、話題が変わったことに面くらいながらも答える。

「はい。妻と結婚してからアメリカに国籍を移していますが、大学以前は中国に住んでいました」

「ということは、君は世界を二分している政治体制の両方を体感しているわけだ。独裁と民主、全体主義と自由主義。君はこの二つについてどう思う?」

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