第三章  その日、世界が塗り変わる音がした 1



 大陸のはるか西には、巨大な地面の裂け目がある。


 ある人はそれを、勇者が悪魔を討伐したときにできたものだと言う。


 勇者の剣が悪魔を真っ二つにしたときの衝撃で、地面も二つに割れたのだ。今際の際に悪魔が吐いた呪詛が毒の霧となり、今も裂け目の中を漂っている。住人が突然死ぬことがあるのは、そのせいだと伝えられていた。


 またある人はそれを、古代に神々がこの地を引っ張り合ったときに裂けてしまったものだと言う。


 この地は薔薇のように美しいピンクの宝石が採れるところで、意中の女神に贈ろうと男神が争ったのだ。ちなみにこの二神には、裁きの女神によってきっちり罰が下されたという伝説が残っている。


 人里離れた場所だったが、やがて宝石の噂が人を呼び、人口を何万人と抱える一大都市がこの地に築かれた。都市は裂け目を囲うだけでなく、少しでもいい宝石を求めて裂け目の中にまで広がった。


 きらびやかな服をまとって豪華な食事を楽しむ人々が都市の内部を練り歩き、不夜城の異名をほしいままにしていた。


 だがその栄華も、宝石が採れる間の僅かな時だけのこと。宝石を採り尽くすと人々は新天地を求めて旅立ち、残されたのは荒廃しきった都市と、行くあてのない無法者ばかりとなった。


 すると今度はその噂が広まり、国や町を追われた訳ありの者たちが集まるようになった。人目を嫌う彼らは裂け目の中に住み、自分たちの望むように都市の跡に手を加えていった。


 だんだんと人が増え、無法者たちなりの秩序というものも生まれたが、その頃には好き勝手に改造されすぎて、迷宮にも等しい奇々怪々な都市へと変貌していた。


 いつしか人はこの都市を、皮肉と感嘆を込めて「階段と迷路の都市」と呼ぶようになった。


 相変わらず訳ありの無法者ばかりが集まる都市だったが、「迷宮」の噂に誘われて冒険者たちが度々やってくるようになった。そのほとんどが精悍な男たちで、彼らを目当てにまた女たちも集まった。




 その日は、特にこれといった特徴のない日だった。


 太陽が中天に昇る頃、バキィッという大きな音がして、豊かな栗毛の女は目を覚ました。


 窓を開けてみると、手を伸ばせば届く位置でブーツを履いた足が二本揺れていた。女の家の上を通る道の木材を踏み抜いたらしい。



 「……」



 なかなか良さげなものだったので、女は右足のブーツを引っこ抜いてやった。



 「うおぉっ⁉」



 ものすごく驚いたような野太い声は、まあ間違いなく目の前の足の持ち主だろう。


 いっそう慌てたように穴から這い上がっていき、次はたった今自分が開けた穴に顔を突っ込んできた。朝焼けを反射する雪原のような色の長い髪に、木屑が引っかかるのもおかまいなしだ。



 「いや、まったく驚かしてくれる。君は大胆なドロボウだなあ、お嬢さん」


 「そこの道は、第二階層の中でも特に水はけが悪くて腐りやすいの。災難だったと思って諦めることね」



 そして女は部屋へ戻っていこうとするので、男は慌てて呼び止めた。



 「コラコラ、コラコラ。ちょっと待ってくれ。それがないと俺の靴下が汚れてしまうじゃないか。まだ行くところがあるんだから困るぞ。それに君には、そんなものよりこっちのほうが似合うだろう?」


 「は?」


 女が不審そうに眉を寄せて窓の外を振り返った。


 男は器用にも、穴に片腕を通して指を一つ鳴らした。すると女の持っていたブーツが、可愛らしいリボンのついたテディベアに早変わりした。



 「はあっ⁉」



 女が目を見張る中、いつどうやって取り返したのか、男はブーツを履き直すと軽やかな足取りで道を先へ進んでいった。



 「それじゃあな、お嬢さん。あんまりオイタはするもんじゃないぜ」



 穴からはそんな陽気な声が、最後にかけられた。



 「~~~~ガキ扱いすんじゃないわよっ!」



 女は目元を赤くして、テディベアを思いっきりベッドに投げつけた。




 さてこの都市は、裂け目を埋めるように下へ下へと造られた。女は男がいたところを第二階層と呼んだが、文字通り都市への入口がある第一階層からひとつ降りた場所のことを言う。


 数字が小さいほど上の階層を指し、光と風と水がよく当たる。逆に数字が大きくなるほど薄暗く、澱んだ空気の下層へ進むことを意味する。


 機嫌良くブーツの踵を鳴らして歩いていた男は、正しく階段から第三階層へ降りたところでまたもや足止めをくらった。今度は自分が開けた穴にではなく、他人が開けた穴にである。家と家の間の道がごっそりとなく、飛び越えることもできそうにない。



 「おーい、ちょっと聞きたいんだが」


 「あー?」



 穴のすぐ隣に建つ家の二階の窓辺で、煙草をふかしている住人を見上げた。



 「いったいぜんたい、この穴はなんなんだ? こんな理由の通行止めは初めて見たぞ」


 「知るかよ。アンタ余所者だな? ここじゃこの程度のこと、しょっちゅうだから諦めろよ。おとといの夜どっかのバカどもが騒いでたから、そのせいじゃねえの?」


 「ほー、そうか。ちなみにそのバカのひとりは君か?」


 「ンなわけねーだろ。おれがそんなデケー穴空けれるほど、立派な腕してるように見えるか?」



 そう言って住人が窓の外へ突き出して見せたのは、薄汚れて骨張った腕だった。



 「なるほど、これは悪いことを聞いた。まるで燃えさしの枝のような腕だ。それでは穴が空くより先に君の腕が潰れてしまうな!」


 「……オメーの腕だってたいして変わんねーだろ色男」



 ヒクッと住人の頬が引きつった。なんとなく悔しくて吐き捨てた皮肉が通じていないのかわざとなのか、男はあっけらかんと笑って答えた。



 「そうか、俺はそんなにカッコいいか! よし、俺のことは今からマイアーと呼んでくれ!」


 「……すげー殺意湧くわー」



 マイアーというのは、今をときめくイケメン俳優の名前だ。こんな場所にだってその名が聞こえていることで、どれほど有名な人間であるか分かる。


 チッと大きな舌打ちをこぼして住人は男を……マイアーを観察した。


 空気を含んだ涼しげな七分丈のシャツと白いズボン。膝までの長いブーツは銀の細工で飾られていて、幅の広いベルトには短剣を一本差している。それもまた小さな宝石で装飾された値打ち物のように見えた。派手ではないが、品のいい色の腰布がマイアーの動きにあわせてひらひらと揺れている。


 マイアーはさすらいの旅人、風来坊を自称しているが、それにしては小綺麗な格好をしていた。


 住人は目を細めると、すっと身を起こした。



 「さて。進めもしないのにここにいつまでもいる意味はないな。引き返す以外に道はあるかい?」


 「……ならそこに、一本隣へ行く道があるだろ」


 「え、どこだ?」



 住人が指差したのは、マイアーの斜め後ろだった。マイアーは振り返り、全身を使って道を探す。



 「んん⁉ もしかしてこれか⁉ いや、さすがにこれは道とは呼ばんのじゃないか? 猫ぐらいしか通れんだろう」



 住人は静かに、かつ素早く手を胸元へ引き寄せた。



 「そうでもねーよ。いいもんたらふく食って太ったお貴族様ならともかく、おれやアンタみてーなのなら横歩きで行ける」


 「う、うーん。そうかあ……?」



 路地というにも細い道を怪しむように凝視するマイアー。住人はそんな無防備な彼の背中の一点を見つめた。



 「ま、これはこれで面白そうだしな。よし、行ってみるか!」



 ターンッ!



 渇いた音ともに、マイアーの背中から赤い血飛沫が迸る――


 ことはなかった。



 「なにっ⁉」



 住人は驚愕して叫んだ。弾を外したどころか、そこにいたはずのマイアーが消えていた。


 窓枠に両手をついて、落ちるかと思うぐらい体を外へ突き出したところで、あごにパシャッと水がかけられた。



 「くっく……あっはっは! いい顔だ!」



 住人の家の外壁にぴたりと背中をつけていたマイアーは、水鉄砲を持ったまま大きな口をあけて笑っていた。死角からの攻撃をまともに受けてしまった男は、反対に顔を歪めて歯ぎしりをしていた。



 「長銃とは珍しいものを持っているが、惜しかったな。どうせこの穴も君が火薬で開けたものだろ? 風が通らないのは厄介だよなあ。臭いがいつまでたっても消えてくれない」



 自分の形のいい鼻をトントンと叩くと、マイアーは堂々と姿をさらして路地へ向かって行った。もう住人が撃ってこないと確信しているようだった。



 「君の手は、火薬を使う者特有の汚れ方だ。見る者が見ればすぐに気づくさ。そう驚くことはない」


 「……バカ言え。アンタ、何者だ?」



 探るように、一段と住人の声が低くなった。



 「気づいたからって、あんな風に避けれるかよ。おまけに火薬の臭いだ? 二日前の臭いが分かるわけねえだろ。犬でも鼻に飼ってんのか」



 それすらも楽しいのか、マイアーは淡く薄い紫色の目を細め、唇を釣り上げた。



 「なに、俺はただの通りすがりのマイアーさ。ま、次からは喧嘩を売る相手をよく選ぶといい」



 ひらひらっと手を振って、マイアーは路地へと体を滑り込ませた。「せっま! きっつ!」という文句も、しばらくは聞こえていた。



 「……チッ。気味の悪い奴だ」



 誰も聞く者はいなかったが、小声でそうぼやくと住人はごろりと横になってふて寝した。彼の部屋の床にはこれまでに奪った金貨や宝石が無造作に転がり、様々な色の髪が天井から柳のように優雅に垂れていた。



 「いーコレクションになると思ったのになぁ」



 住人の瞼の裏を、マイアーの明るい灰色みを帯びたオレンジの髪が何度も横切っていった。



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