19.極楽温泉モノクロア(前編)

 ×  ×  ×


 異世界の空が、夕焼け色に染まる。

 旧市街の建築物は、おそらく砂岩を削り出して造られたであろうやや明るい灰色で、石造りの建物が多く、それらの滑らかな壁面に反射した夕日がとても眩しい。

 

 夕日に誘われ、どこか遠くで、鐘が鳴る。

 

“ゴォーン……ゴォーン……ゴォーン…………”


「夕焼け……小焼けで……日が暮れて……」


「あ?なんか言ったか?」


「……俺の故郷じゃ、日が暮れると、鐘の代わりに、こういう歌が聞こえてくるんだよ」


「へー。そりゃあ、毎日大声張り上げて歌う仕事の奴は、大変だろうなー」


 ──ちがう、そうじゃない。


 着替えの入った桶を頭に載せ、首から手拭いをぶら提げたレラが神妙な顔をしている。その姿にも増して、間の抜けた返しに、思わず吹き出しそうになるが、なんとか我慢する。

 そりゃあそうだ、異世界の泥棒少女が、毎日決まった時間に録音したメロディを大音量で放送するハイテク時報なんて、知るはずもないのだから。


「ところで、この街の風呂屋ってどんな感じなんだ?ここじゃ、綺麗な水は貴重品なんだろ?」


「ああ。飲み水は貴重だけど、風呂は地下から温泉が湧いてんだ。浴びるぶんにゃ、平気だけど、飲んだりしたら腹を下す」


「えぇ……?飲んだら腹下す水を、頭から被ったり、大事なところとか、浸したりしても大丈夫なんでしょうか……?」


 少なくとも、この街の衛生状態は、決してよろしくは無い。旧市街を流れる川のそばには、常にドブのような臭いが立ちこめているし、暗がりではドブネズミの親子がチョロチョロと走り回っているのだ。

 これから、そんな街の銭湯的な場所へ行こうというのだから、いくら平気だと言われても、不安でしか無い。

 

 不安に満ちた表情で、足取りを重くする壮亮。

 少しだけ先を歩くレラが振り返り、眉の端を下げる。


「そんな顔すんなって。いくら飲めないからって、多少、目やら口に入ったくらいじゃ、痛くも痒くもならねーよ?」


 危うく「お前と一緒にすんな」という言葉を吐いてしまうところを間一髪で飲み込んだ壮亮。

 

 いくらこいつが、異世界の過酷な環境に慣れた野生児だとしても、そういうことを無神経に指摘すれば、喧嘩になるのは間違いない。


 立ち止まったレラが振り向き、掌を差し出してくる。


「カネ。一人、八十イェンだかんな?」


「カネ?そんなの、銭湯……もとい、風呂屋に着いてからでいいだろ」


「着いたからカネをよこせっつってんだろーが。入り口の旗見ればわかるだろ、バカ」


 レラが怠惰に指差す方向へ目をやると、玄関のあたりに温泉などの暖簾で見覚えのある、湯沼から三本湯煙の立ち上る《ゆ》のシンボルによく似た旗が飾られた、平屋建ての公衆浴場らしき建物が目につく。

 扉が開かれたままの玄関では、異世界の住人達が皆、手拭いや桶を手に、ひっきりなしに出入りしている。

  

「へへん。ここが旧市街名所のひとつ、モノクロア温泉だ」


 レラが得意げに腰を手を当てて仁王立ちする。


 なるほどここね。こういう感じね。

 うん、思った以上に、普通のスーパー銭湯っぽいな。

 思わず、郷里の風に吹かれたような感傷に浸ってしまう俺。ぐすん。

 

「……アンタ、また泣いてんのか?なんで??」


「う、うっせ!目にゴミが入っただけ!」


 そう言って、足早に建物の中に入っていく壮亮の後ろを「おいちょっと待てってば」と、小走りで追いかけるレラ。

 入り口の少し段差になっているところに脱ぎ捨てられたビーチサンダルを拾い上げ、「何のつもりだ、アホか!」と、もはや半笑いで壮亮に突き返す。


「あ、そうか。靴はロッカーに入れないと……って、いやいや。ここはそういう世界じゃねぇんだよなぁ……ハァ」


「意味不明な行動の次は、なにを訳の分からないことをぶつくさと……。んなことより、ほら、あたしの風呂代、八十イェンだってば」


 ちょこっと背伸びしたレラに代金をせがまれ、財布の中から取り出した銅貨を8枚手渡す。

 ところでコレ、日本円換算すると幾らくらいなんだろうか。

 普通に考えるなら、十イェン銅貨一枚=十円として、入浴料が八十円?

 他のヒントとしては、昨日のイカ焼きが三百イェンで、レラの奴の罰金が三万六千九百八十イェン……。

 

 そして、浴場の番頭らしきトカゲ人間の鎮座する番台に目をやると、異世界語で書かれた、おそらく《料金表》であろう存在に気が付く。

 文字は何が書いてあるのかさっぱり分からないが、一緒に数字が書かれているあたり、石鹸やらタオルみたいな銭湯で売っている小物の料金表なのだろう。

 多分、一番上に書いてある『80』っぽく見える数字は、入浴料のことだ。

 

 ってことは、大体一イェンあたり……?


 ……うーん、なるほど。分からん。


「んじゃ、後でな」


 入浴料を支払ったレラが、白色の布が下げられた入り口へと入って行く。そして、そのすぐ隣には、黒い布が下げられた別の入り口。

 どうやら、一応この世界にも男湯と女湯の概念があるようで、内心、ホッとしたような、はたまた心のどこかで期待していた純情を打ち砕かれたような、複雑な心境の壮亮。

 

 いやいや。むしろ混浴とか、無くてよかったわ。

 もしも混浴だとしたら、《俺の俺》は正気を保てずに《傍若無人のボルケィノゥ》と化し、再びブタ箱行きだっただろう。

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