口づけ

[現実]

私は現実に戻った。彼の記憶を振り払う。

「あなたは戦うことをやめてくれないんでしょ?」

「ああ。絶対にお前を殺す」

「諦めるつもりはないんでしょ?」

「ホームレスにとって諦めるとは死を意味する。俺は何があっても諦めない」

「どうしても分かり合えないのね?」

「どうしてもだ」

『七十七パーセント』

冷たいアナウンスが空気をより重たくした。

「あなたが死ぬことになっても?」

「死んでもお前を殺す!」


黒髪の少年は最後の力を振り絞って剣をまっすぐ構えた。その瞬間、

「お姉ちゃん?」

瓦礫の間からたくさんのホームレスの子供達が出てきた。先ほどの爆発が気になって見にきたのだろう。

「来ちゃダメ!」

私が叫んだがもう遅い。


「俺のつるぎは悪を砕く!」

少年がありったけの恨みと苦痛を込めた剣を、私たちホームレスに叩きつけてきた。


空が泣いているようだ。勝負は一瞬でついた。地面に倒れたのは黒髪の少年だった。病気の悪化によって本来の力を出せなかったのだろう。彼の体からは夥しいほどの血液が地面に溶けている。私の様子を見て、瓦礫の合間からたくさんのホームレスが飛び出てきた。私たちホームレスは彼の周囲に集まった。


「よくも仲間をたくさん殺したな! 私のこともゴミのように殺そうとした!」

少年は何も言わずに空を見上げる。早く死にたがっているように見えた。


ホームレスのうちの一人が角材を持ってきた。ホームレスの子供達はみんな手に手に何かを持っている。まるで獲物を取り囲むハイエナの群れのようだ。弱った獲物を取り囲んで、一斉に襲い、咬み殺す。

「あなたのせいでレジスタンスは壊滅した」


私は言葉の刃を彼の喉元に突き刺した。

「そうだな」

「あなたのせいで罪のないホームレスが死んだ」


私の悲しみを口に出して、彼に聞かせた。まるで、刃物で彼を切り刻んでいるみたいだ。

「そうだ。俺が殺した」

「あなたのせいでどれだけの人が傷ついたか」

恨みのこもった視線を彼の黒い瞳に突き刺した。まるで目玉を抉り抜いたようだ。

「早く、俺のことを殺せ!」



そして、私たちホームレスは彼の傷の手当てをした。



「ミカちゃん。角材を頂戴」

「うん」

私は彼女が持っていた角材を受け取ると、彼の骨折している箇所に添え木した。

「ケンくん。あなたの能力で、この人の体から痛みを取り除いてあげて」

私はずいぶん昔に焼き魚をあげた兄弟の兄の方に声をかけた。


「わかった」

「おい! お前ら何をしている?」

「何ってあなたを助けているのよ」

「サヤちゃん。あなたの能力で、怪我の回復速度を速めてあげて」

今度は妹の方に声をかけた。


「うんっ!」

「ここは任せていい?」

「「「うん!」」」

「この人の怪我の治療が終わったら、ジャックの手当てもしてあげて」

「お姉ちゃんはどうするの?」

「私は先生と一緒に王様をやっつけに行くわ。今を逃すともう永遠にチャンスはないわ」

「なぜ俺を助けた?」


「わかるでしょ? 私たちがホームレスだからよ。私たちは弱い。だから助け合わないといけない。夜は身を寄せ合って眠って、食べ物や飲み物を分け合う。そうしないと生きていけないのよ」

「俺はこの怪我が治ったら真っ先にお前を殺しに行く」

私は彼の方をもう一度だけ向いた。


「あなた、本当は苦しくて仕方がないんでしょ? 本当は辛くて泣き叫びそうなんでしょ? ずっと一人で耐え続けていたんでしょ? 本当はこんなことをしたくないんでしょ?」

私の辛い思い出は振動となって喉から飛び出た。

「お前に何がわかる?」


「わかるわよ。私も元ホームレスだったもの。辛いわよね。毎日毎日処刑宣告を待つような日々。もう明日なんて来なくていいのに、もう生きていたくないのに、人間の人生は明日に進まされる。いつかこの苦しみから抜け出せる。いつかこの地獄から這い出せる。そう願いながら、何も変わらないまま今になったんでしょ?」


少年の目の表情が少しだけ和らぐ。

「どれだけ強く目を瞑っても、どれだけ必死で見ないようにしても、辛い現実は何も変わらないわ」

私は少年の頬に右手を当てる。

「お願い、もう苦しくないフリをするのをやめて。もう辛くないフリをするのをやめて。もう自分から地獄に落ちようとしないで」


私の目の端からは熱い何かが溢れていた。だが、それを見ても、

「次に会った時にお前を必ず殺す」

黒髪の少年は私の手を勢いよく払いのけた。私は彼の心根を変えることができなかった。私は最後に彼の目をもう一度見る勇気がなかった。彼の目を覗き込むと、黒い絶望だけが写っているような気がしたから。

私は下を向いたまま、

「じゃあここは頼んだわ」

ホームレスたちにそういうと、ジャックと先生の元に向かった。


私が先生とジャックの元に行くと、二人は顔を上げて私の瞳を覗き込んだ。

「先生、行きましょう」

先生は力強く頷いた。今の先生の体はもう限界のはずだ。きっといつものように電流を筋肉に直接流して、無理やり体を動かしているはず。先生は体力が尽きるといつもそうやって戦う。

「待て! 俺も能力で怪我を治して行くよ!」

「ダメ! 今日一日で能力を使いすぎよ。怪我はホームレスたちに治してもらって! そのあと追ってきて! そうすればあと何回かオレオレ詐欺が使えるでしょ」

「わかった。たとえ大きな怪我をしても諦めるなよ。俺が間に合えば嘘にできる」

「ええ。わかっているわ。絶対に追ってきてね。約束よ!」


私はジャックの頬に優しくキスをした。


「ああ。俺は約束を決して破らない。絶対に助けに行く!」

そして、私と先生は王の待つ城に急いだ。心臓がバクついて、肺が弾けている。骨が音を立てて軋む。全身が火にくべられてしまったかのようだ。だけど、頭の中だけはいたって冷静だった。氷のように冷たい炎が私の中で静かに燃えている。


王宮の中は豪華絢爛だった。床は金と赤の煌びやかな絨毯が敷き詰められている。足で絨毯を踏みしめるのを思わずためらってしまう。一歩足を踏み出すごとに、心地よい足音が廊下に響く。まるで私の火照った心を落ち着かせようとしているようだ。


王族が見栄を張るために一体どれほどのホームレスが犠牲になったのだろうか。考えたくもない。この絨毯一枚で、一体何人のホームレスの命を救うことができるのだろうか。王宮に住んでいる人は、そんなこと考えもしないだろう。


私と先生は、城門から入って、廊下を進み、食堂を通って、階段を上った。そして、中庭を突っ切って、一度室内に戻り、その後、もう一度中庭に出た。最後に、中庭を抜けた先にある大きな扉の横の隠し扉を開けて、玉座の間にまっすぐ向かった。


道中では先生と取り留めのない会話をした。

「いよいよ決戦ね」

「ああ。勝っても負けても今日で戦いが終わる」

そういう先生の顔は少し曇っていた。

「先生。先生が私のことを装備した日のことを覚えている?」

「ああ。いつまでも忘れないよ」

「私、先生のことを本当のお父さんのように思っているの」

私は照れ臭かったけど、ずっと言えなかったことを言った。

「俺も愛のことを実の娘のように思っているよ」

先生もそれに応えてくれた。それがたまらなく嬉しかった。

「愛の血の繋がった両親はどんな人だったんだ?」

「顔はあまり覚えていないけど、パパはとても厳しい人だった。ママはとても優しかった。パパはきっと私のことが好きじゃなかったわ」

「そんなことないだろ。父親は自分の娘が一番可愛いと感じるものだ」

先生の顔はどこか自信にあふれていた。

「先生にも娘さんがいるの?」

「ああ。愛によく似ていい子だったよ」

だった? 先生は過去形であることを強調した。悪いとは思ったけど先生にそれについて聞いてみた。

「今はどうしているの?」

「いずれ教えるよ」

「そう」

それからよくわからない沈黙が流れた。そして、玉座に続く扉の前に着いた。

二人ともわかっている、玉座に行けば熾烈な戦いが待っていることを。だから少しでもここで会話をしたい。もしかしたらこれが最後の会話になるかもしれないのだから。


「愛のお父さんはまだ、その」

先生は気まずそうに口ごもる。

「ええ。生きているわ。ママはもう死んじゃったと思うけど」

「と思う?」

「ええ。ママが行方不明になって、パパはおかしくなっちゃった」

「それが愛がホームレスになった原因か?」

私は先生の青い瞳を見つめた。青い瞳に反射して私の顔が映る。

「ええ。そうよ。細かいことはあまりよく覚えていないけど、私はパパに捨てられたの。そして、先生に拾って、助けてもらった」

あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。初めて誰かが善意で私のことを助けてくれた日。私がホームレスでなくなった日。人生という日記の中で一番光り輝く一ページだ。そのページだけは、どんなに歳を取っても、決して記憶から抜け落ちることはないだろう。


幸せな記憶はすぐに消えて、なくなってしまう。だけどこの記憶だけは決して忘れない。

「さあ。そろそろ行きましょう。今日で私たちが勝てば、この国の未来は変わる」

「ああ。これで俺の戦いも終わる!」

そして、重くて巨大な両開きの扉を開けた。扉はゆっくりと開いていく。中からは不気味な冷気が漂う。焼け付くような緊張感と相待って、冷たいのか熱いのかもうわからなくなってしまった。冷と熱の協奏曲は、私の肌を見えない炎で焼いて焦がした。

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