1-15、銀色の月はただ静かに


      *  *  *


「はぁ〜、やっぱり酒はたまんねぇな〜」


 働かずに飲む酒はうまいが、働いた後に飲む酒も嫌いではない。

 オレはいつもの酒場『ざくろ石』で、木のジョッキに注がれた葡萄酒を1人傾けていた。酒が疲れた体の隅々に染み渡る。

 リースは一緒に酒場まで来た後に、1人で組合ギルドへ報告に向かった。報酬は後で分けると言っていたが、大した額にはならないだろう。


「ほい、鹿肉のステーキお待ちどうっ」


 酒場の自称看板娘イーシャが、威勢のいい声と一緒にオレのテーブルの上に鉄板を置いた。

 鉄板の上には厚切りの鹿肉が湯気を立てている。食欲を誘う匂いが漂ってきた。


 オレはナイフを手に取ると、肉に切れ込みを入れる。赤身の肉は程よい焼き加減で、中心部はほんのりピンク色だ。

 肉の一片をフォークに刺して口に入れると、肉汁が舌の上で踊った。咀嚼するたびに、口の中で旨味が広がっていく。

 しばらく肉の味を堪能した後に飲み込むと、体内がじわりと熱くなった。体が肉を欲していたのだ。

 食器を置いて葡萄酒を飲むと、口に残っていた肉の脂っぽさが洗い流された。渋味が口内に広がり、また肉を食べたい衝動が襲ってくる。


「今日は大活躍だったみたいだねぇ、シグ君。リースちゃんが喜んでいたよ」


 テーブルの向かい側に座るイーシャが、ニコニコ笑いながら話しかけてきた。

 オレは持ち上げた木のジョッキを置く。


「……別に大したことはしてねぇよ。あいつの筋がいいだけさ。オレなんかが口を出さなくても、いずれ名のある冒険者になるだろうよ」


「へぇ! キミが褒めるんだから、逸材なんだねえリースちゃんは!」


 決して嘘は言っていない。本心からの言葉だ。今日は思いがけない厄介ごとが降ってきたため手は貸したが、あいつはすぐに山羊の悪魔バフォメット程度なら単独で討伐できるようになるだろう。


「今日はキノコの魔物の魔茸マタンゴだっけ? そいつをやっつけに行ったんだよね」


「あぁ、まぁな。そんなに強くはない魔物だ」


 山羊の悪魔バフォメットのことは誰にも話していない。あのごろつきたちがリースに絡んできたのはこの酒場だ。イーシャに話せば、少なからず責任を感じてしまうに違いない。

 それにしても、山羊の悪魔バフォメットに魔術の力を与えたのはどんなやつなんだろうか。あいつは結局、話しちゃくれなかったな。


 何のために。そんなことを考えるのは時間の無駄だ。混沌の勢力の目的はただ世界に混乱をもたらすことで、そこに理由なんてない。

 だが、やつは気になることを話していた。やつの最期の言葉だ。


『混沌ハ人ノ心ノ中ニ巣食ウノダ』


 山羊の悪魔バフォメットは何を思ってあの言葉を発したのだろうか。何かを伝えようとしたように思えなくもない。

 混沌ケイオスに答えを求めるのは時間の無駄だ。しかし、何かが引っかかる。嫌な予感がする。


「イーシャ」


 オレは、仕事に戻ろうと席を立ったイーシャを呼び止めた。


「酔っ払いのたわ言だと思って聞いてほしいんだが……もしかしたらこの街で何かが起きるかもしれない。用心だけはしておいた方がいい」


 振り返ったイーシャは少し考えた後、笑顔を浮かべて答えた。


「……何かあっても、その時はキミが守ってくれるから大丈夫だよ」


「そんなわけあるか。オレは真っ先に逃げるっての」


「そうかな? ふふふ」


 イーシャは上機嫌に歩き出すと、別のテーブルの客の注文を聞きにいった。

 オレは鹿肉のステーキを食べ終えると、満腹の腹を抱えて酒場を後にする。


 緑翠ノ月に入っても、夜はまだ肌寒い。酔いが回ったオレにとっては心地よい気候だ。柔らかい風を感じながら、オレは寝床へ向かってぶらぶら歩き出した。

 なんだか今日は疲れたな。こんなに一度色んなことがあったのは、冒険者だった時以来だ。この3年間は死んだように生きてたからな。


 もしかしたら、こんな疲れる日々がしばらく続くかもしれない。つい勢いで、この街にいる間は冒険に付き合ってやるとリースには言っちまったからな。

 才能溢れる、だけど何かの拍子に壊れてしまうような危うさを持った小さな勇者リース。

 あいつはきっと放っておいてもぐんぐん成長していくだろうが、もう少しだけ付き合ってやるのも悪くないかもしれない。


 オレは足を止めて、夜の空に浮かぶ月を見上げる。細い三日月が銀色の穏やかな光を放っていた。


「………………」


 銀色の月を見て、オレはある1人の女性の姿を思い出してしまった。

 美しい銀色の髪をなびかせる、ある1人の勇者を。

 かつてのオレにとって、その人がオレの世界の全てだった。

 この世の何よりも愛おしく、けれども守ることができなかった命。


「どれだけ時間が経ってもさ、忘れることなんてできないよ……なぁ、オルテシア」


 オレは久しぶりに——本当に久しぶりに、その人の名前を呟いた。


 返事はない。


 銀色の月は、ただ静かに夜空で微笑んでいた。

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