1-9、山羊の悪魔《バフォメット》


 秩序の女神イサナから与えられる戦職クラスとして戦闘を続けていくと、その役割に応じた不思議な力を身につけることができる。

 それが職能アーツだ。


 職能アーツの恩恵は様々だが、どれも戦いを有利にするものばかり。

 リースの戦職クラス軽装剣士フェンサーだ。身軽に戦場を舞い、風の如く剣を振るう戦い方をする軽装剣士フェンサー職能アーツは——


職能アーツ〈戦刃加速〉!」


 リースの剣が青白い光を帯び始める。


「あなたが魔物になったのなら容赦はしない。刃を使う!」


 リースはごろつきどもを相手にした時、剣の側面を振るっていた。だが、山羊の悪魔バフォメット相手には刃を向ける。手加減して勝てる相手ではないと肌で感じているのだろう。


 職能アーツ〈戦刃加速〉。

 その力は持ち主の剣の速度を加速させる。


「やぁ!」


 鋭さを増した刃が、山羊の悪魔バフォメットの獣のような足を浅く切り裂く。青白い光が剣が通った軌跡を描いた。

 傷を受けた山羊の悪魔バフォメットは顔をしかめ、後方へ跳んで距離を取った。リースは勢いを止めず、追いすがる。


 職能アーツを使用している間、リースの剣戟は“技”へと昇華する。小さな軽装剣士フェンサーはその技の名を叫んだ。


「一瞬二斬〈燕斬り〉!」


 リースは〈戦刃加速〉の力を乗せ、一息つく間に二発の斬撃を叩き込んだ。

 山羊の悪魔バフォメットの黒い体に二筋の刃傷が走り、そこから濁った煙が吹き上がる。どうやら奴の体はすっかり人間ではなくなってしまったようだ。


 今のところはリースが押している。だが、あいつは攻撃を受けながら、悪魔の体の扱い方を確かめていたように見えた。

 つまり、本番はこれからだってことだ。


『調子ニ乗ルナヨ、小娘ガァ……!』


 山羊の悪魔バフォメットが吠える。リースは気圧され体を震わせた。

 山羊のような口から、長い舌が矢のような勢いで伸びてくる。リースはとっさに横に転がり回避するが、自在に動く舌が追尾してきた。


「このっ……!」


 リースが剣で舌を叩き斬ろうとするが、変幻自在の動きをする山羊の悪魔バフォメットの舌は捉えられなかった。

 鞭のようにしなる舌がリースの足に絡みつく。リースの小さな体は空中に軽々と持ち上げられ、そして地面に叩きつけられた。


「がぁ……!」


 衝撃で、リースの口から声が漏れる。だが、剣は手放していなかった。自分の足を捉える山羊の悪魔バフォメットの舌を、今度こそ切断しようと振り下ろす。


『フハハ! 無駄ダ、無駄ダ!』


 刃が届く前に、リースの体は再び空中に放り投げられた。宙のリースに狙いをつけ、山羊の悪魔バフォメットが跳躍する。


「一瞬、二斬……」


『遅イ!』


 技を繰り出す前に、リースは山羊の悪魔バフォメットの手によって地面に叩きつけられた。

 力なく横たわる少女の手から、ついに剣が落ちる。体力は限界を迎えたようだった。


『コレガ、思イ上ガッタ勇者ノ末路ダ。哀レダナ。選バレタバカリニ、ソノ命ヲ散ラシテシマウノダカラ』


 山羊の悪魔バフォメットがゆっくりと歩を進めながら言った。


『マズ手足ヲ潰ス。動ケナクナッタトコロデ裸ニ剥キ、皮ヲ剥イデヤル。小娘、オ前ハ後悔デ泣キ叫ブノダ!』


「ボクは、泣かないよ……!」


 リースが震える手で、なんとか体を起こす。


「痛くても、恐くても、ボクはこの道を後悔しない。選ばれたんじゃない、ボクは選んだんだ。冒険者になることを、そして立派な勇者になることを……! 自分が選んだ道が困難だったからといって、何かのせいにして逃げたくはない!」


 リースの言葉は狙ったものかどうかは知らないが、ごろつきどもを糾弾しているようだった。

 あいつらは冒険者の道を挫折し、それを自分たちが勇者に選ばれなかったせいだと考えた。それでリースを一方的に恨み、因縁をつけた。


『黙レ! 黙レ黙レ! 俺ヲ否定スル言葉ナド聞キタクハナイ! 痛メツケルノハヤメダ。一息ニ潰シテヤル!』


 山羊の悪魔バフォメットが腕を振り上げる。身動きが取れないリースにとどめを刺すつもりだ。

 このままでは、リースの死は逃れることができない。悪魔の手に握り潰されその冒険を終えることになるだろう。


 よくある話だ。喜び勇んで冒険者の道を歩き始め、予期せぬ落とし穴にかかって落命するなんてことはな。


 物語にすらならない、よくある話だ。


 オレは木の影に隠れたまま動くことはしなかった。ただその場にいて、リースの戦いを見ているだけだった。

 山羊の悪魔バフォメットが口の端を歪めて笑みを作り、大鎚のような腕を振り下ろす。


 小さな勇者は恐怖に抗い、目を背けることなく悪魔を睨みつける。


 オレは動かない。


 動く必要はない。




 なぜなら——




「動きが、止まった……?」


 リースが驚きで息を呑む。

 拳を振り下ろそうとした山羊の悪魔バフォメットが、凍ったように動きを止めたのだ。


 何が起きたか、誰もが理解できていないようだった。同じ姿勢で固まる山羊の悪魔バフォメットも、命が助かったリースも、遠巻きに様子を伺う取り巻きのごろつき2人も。


 そんな中でオレが木の影からのこのこ出てきたもんだから、視線を一気に集めることになってしまった。

 うぅ、注目されるのって恥ずかしいなぁ。


『ウ、動ケヌ……! 貴様カ、貴様ダナ⁉︎ 一体俺二何ヲシタ! 貴様、タダノ呑ンダクレデハナイナ!』


 体を動かそうともがく山羊の悪魔バフォメットが、吠えるように言った。


「ただの呑んだくれってのも間違いないぜ? 名乗るほど立派な名前は持っちゃいないけどな。だが、忘れてるみたいなんでもう一回自己紹介させてもらうが……」


 オレは何も持たない両手を広げて告げる。




「通りすがりの無職だよ」

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