1-2、世界の常識
「こらっ、馬鹿シグ。女の子をいじめるなんて見損なったよ」
後頭部を軽くコツンと叩かれる。
振り返ると、予想通りの顔がそこにあった。
「……あのなぁ、イーシャ。オレは嫌なことを嫌だって断る当然の権利を使っただけで、いじめてるわけじゃねえっての」
この酒場『ざくろ石』の自称看板娘イーシャだ。ふわふわしたオレンジ色の癖っ毛の上に白い頭巾を巻いた勝気そうな女性である。
食器の片付けをしていたのか、空いた木のジョッキを手に持っている。そいつでオレの後頭部を叩いたのだろう。
「かわいい女の子のお願いは聞いておくものだよ、シグ君。どうせ毎日やることがないんだから、手伝ってあげたらいいじゃない」
「オレぁこう見えて忙しいんだよ。他を当たってくれ」
「ふぅん、忙しいんだあ」
イーシャの目がすっと細くなった。なんだか嫌な予感がする。
「だったら、溜まりに溜まったツケを今この場で払うくらいの蓄えはあるはずだよねえ? 忙しいくらい働いていたんだからさあ」
オレは風向きが悪くなってきたのを感じてイーシャから目を逸らす。
万年金欠の無職になぜかツケ払いを許してくれるこの店は重宝していた。どんどん積み重なっていくツケという名の借金から目を背け、酒を飲んで忘れていた自覚は、ある。
「……イーシャよ、持っていない物を与えることは神にもできないという言葉を知っているか?」
「与えるんじゃなくて、返さなくちゃいけないのはわかっているのかなあ?」
木のジョッキがテーブルに叩きつけられ、杯の中の葡萄酒が揺れた。イーシャが笑顔のまま放つ迫力に、リースがぶるぶる震えている。
感じる冷えた空気は多分、殺気。
くるぞ……!
「キミがなんだかんだ理由をつけて働くことを避けているのは知っているよ? だけど、今キミが息をするようにぐびぐび飲んでる果実酒だって農家の人がせっせと栽培した葡萄を酒蔵の人が醸造して酒に加工して商人が仕入れて運んでわたしが注いでここに持ってきてシグ君の口に入るんだよ? 世界は誰かの労働で成り立っていることを知ろうか! 借りた金は働いて返す!
イーシャが怒涛の勢いでまくし立ててくる。その迫力はまるで怒れるドラゴンだ。
「わかった、わかったよ! お前は一体オレに何をやらせようっていうんだ」
ツケを盾にされてしまったら、哀れな無職は膝を折るしかない。
オレが観念したように両手を上げると、イーシャはしてやったりといった笑みを浮かべた。
「決まってるでしょ。リースちゃんと一緒に
「めんどくせぇえええ……」
つい本音が漏れてしまう。
元はと言えば、こいつがリースにオレのことを元冒険者だと吹き込んだせいで、付きまとわれる羽目になってしまったのだ。頼むから人を面倒ごとに巻き込まないでほしい。
「まぁ、そう言わずにさ。いい酒と食事を奢ってあげるから。樽に3年寝かせた赤の葡萄酒に、鹿肉のステーキだよっ」
イーシャの口調が一転、優しいものに変わった。
鉄板の上で肉汁が跳ねる熱々の鹿肉を想像して、口の中に涎が溢れてきた。肉など久しく食べていない。春になって餌も豊富になり、肥え太った鹿はさぞ口の中でとろける美味しさにちがいない。
なんてやつだ……! こいつは、ツケの返済を迫って脅しをかけた後に甘い誘惑をチラつかせてオレを懐柔しようとしてやがるんだ!
しかし、オレにも絶対に働きたくないという無職の意地がある。鹿肉なんかで揺らぐような柔い意地ではない。鹿肉なんかで、鹿肉なんかで……しか、しか……
「し、仕方ねぇなぁ。そんなに言うなら、一回くらいは働いてやってもよくなくない……ぞ!」
無職の意地か、鹿肉か。天秤は……わずかに鹿肉に傾いた。
「決まりだねっ。よかったね、リースちゃん! 凄腕冒険者のシグ君があなたの
「や、やった! 初めての仲間だ!」
リースが満面の笑みを浮かべて飛び上がった。
いや、
そう口を挟みたかったが、本気で喜んでいる様子のリースに言うのは水を差すようで憚られる。
しかし、こいつはどうして一人きりでこんな街にいるんだろうな。口調はガキっぽいが、時折見せる礼儀正しさから育ちの良さが伺える。そこそこいい家柄だろうに、仲間も持たず、装備もそれなりなのは理由があるに違いない。
面倒ごとに首を突っ込むつもりはないがな。
「それじゃあ頼んだよ、凄腕冒険者さんっ」
イーシャに背中を叩かれ、オレはため息をつきながら席を立つ。
「……言っておくが、オレは凄腕でもなんでもないからな。通用しなくて、引退して逃げ出した、ただの腰抜けだ」
そう言うと、イーシャはすっと目を細めた。
「……そんなことはないよ。キミがすごい冒険者だって、わたしは知ってるから」
「どうだかな」
オレはリースに向き直ると、頭を掻きながら告げる。
「つーわけで、オレがお前に冒険者の心得ってやつを教えることになったけど、期待はするなよ? オレは弱っちくて、教えられることなんてほとんどないんだからな」
「ううん! ボクがシグルイさんに教わりたいって思ったのは、強いからだけじゃなくて、とても素敵な言葉を言ってくれたからです! ボクは……その……す、すごく嬉しかったんです!」
リースが目を輝かせながら言うが、オレに心当たりはなかった。酔った勢いで何かを口走ってしまったのかもしれない。
リースに腕を掴まれ、引っ張られる。オレは慌てて杯に残っていた葡萄酒を飲み干した。ほろ酔い状態で
「さぁ、シグルイさん。冒険に行きましょう!」
薄暗い酒場の店内から、太陽の光に満ちた屋外へ出る。春の穏やかな陽光を受けて、少女勇者の表情が輝いて見えた。
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