「違う」

芋鳴 柏

「違う」

正しい理屈だとは思わない。

もとよりこういった考え方が、真っ当であるとは思えない。

かといって善悪で事を判断するのが、全てにおいて一般認識の上で正しいとも考えられない。差別だ、差別だという人間もいる。

デリケートな問題だとも思う。

「違い」をどう社会の中で、受け止めていくのかは。


人間はごまんといれば、「違う」連中が現れるのは世の常だ。

大概、こういった「違い」に悩む人もいれば、人とは違うことに惹かれて自らをその中へと括ってしまう人もいる。どちらがどっちとは言いにくい。

区別だってつかない程に。

自分を省みて、自分が「違う」事に気付いた時の絶望感だって、人それぞれだ。

やっぱりね、ともなれば、それだけで自らの人生を半ば諦めなければいけない人だっている。

そういった「違う」人を、私たちはどうしたらせめても幸せに出来るのか。最大多数の最大幸福を取るならば、彼らは生きていてもいいのかどうか。


私の母は、人とは「違う」。

ガンを発症したからではなくて、きっと元から。

同じ血を継いだ自分が、同じように違っていないとはどうして言えるだろう。

自分は、自分を省みる限りおかしい方の人間であって、それを周りの人間はある程度を受け止めてきてくれていた。現に、そういった優しさにあったからこそ、こういう事を言ってはいけないのかもしれない。

それでも言いたい。

世の中には、生きてはいけない人がいる。

自らで生を分断するべき、人間がいる。

「違う」に気付けるなら、自分を縛り付けて雁字搦めにするべき人間がいる。

いるだけで人に迷惑をかけるのなら、幸福に乗っ取るのなら、彼らはいてはいけない。

私が私を縛るように。

「違う」と気づいたならば、同様に自粛をするべきこともある。

私は、貴方を自分の友人で同じような「違い」を持っているからこそ、私なりの優しさに乗っ取って、「生きるな」と言ったに過ぎない。

これだって、優しさだ。

私なりに、受け止めている優しさである。


弱者はいない方が良い。

「違う」の全てが世の中に役に立つわけではない。

普通を渇望するおかしさもあれば、世に活かせるおかしさもある。

世に活かせるのならば、勝手に生きていく。

それだけでいい。

だが、自らがどうしようもないと考えるのならば、自分の出来る範疇内で生きていればいい。


社会は変わった。

「違う」を焚きつけて、皆殺しにしていた時代とは違う。

いつまでも現れるおかしさ全てを、選別する事も無い。

弱者を生存させるだけの豊かさを手に入れた私たちは、生かすという優しさを「違う」に与えてくれている。それ以上を望むことは、あまりに野暮でしかない。

社会がより豊かになれば、「違う」人と普通の人が助け合えるようになる。

利益や正しさに基づいていさせるだけにとどまらず、「違う」を武器にさえできる社会が、時代が来ることを切に願っている。

弱者の幸せこそが、全体の幸福そのものに繋がっていくように。


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「違う」 芋鳴 柏 @ru-imo-sii-cha-96

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