【5】

 次の日も、男はその場所へ赴いた。

 いつもの通りに空白へと足を踏み入れ、今度は振り返る事なく、入り口に足を踏み込んだ時点で、椅子が置かれているであろう場所をひょっと覗き込んだ。

 男が見ると、椅子は変わらず其処に在り、その上には無表情の人形が、行儀良く鎮座していた。

「こんにちは」

 男が挨拶をすると、人形は淡白な視線を男に送る。

「こんにちは」

 木霊のように同じ言葉を反芻する人形の様子に、それらしいな、と男は思った。

「今日は本、読んでないんだな」

「気分じゃなかったから」

 淡々とした応答の人形に、男は少し寂しさを覚えた。

 次の話題を考えていたところで、ふと、男は鼻腔を掠める妙なにおいに気が付いた。じわりじわりと不快感を煽るそのにおいは、鉄や錆といったものを連想させる。

 男は、人形の顔を覗き込んだ。

「もしかして、怪我、してる?」

 人形は息を詰め、僅かに目を見開く。硝子玉のような瞳の表面に、ぼんやりとした男の顔が映っていた。

 人形は直ぐ様、男から顔を反らし、懸命に感情を悟らせまいとするように、歪みかけた表情を平淡に均そうとしている。人形が人形たるべくして、殺した声が、震えていた。

「いや、別に、」

「何処、怪我してるの?」

「気にしないで」

 そうは言われても、目の前に怪我をしてる子供が居るとなれば、男としても放っておけない。けれど人形は、触れられたくないとばかりに男と一切視線を合わさず、男の言及にも拒否の姿勢を貫いていた。

 これは一筋縄ではいくまいと悟った男は、鉄錆のにおいを気にしつつも、人形の意思を優先させてやることに決める。

 言及が止むと、人形はほっとしたように、伏し目がちな目を恐る恐る男に向けた。酷く、庇護欲を駆り立てるような双眸だった。

「お前がそう言うならこれ以上訊かないけど、痛かったらすぐに言えよ」

「ありがとう」

 人形は一言、男に感謝してから、以降は口を閉ざしてしまった。間が悪かったかな、と男は思案に耽りながらぼりぼりと頭を掻き、再度、気まずそうに頻りに居ずまいを正す白磁の人形を見下ろした。

「ごめん、タイミングが良くなかったな。出直した方がいいか」

 男が問うと、人形はこくりと一つ、頷いた。

 男は納得し、無言で一つ息を吐いてから、未だ気まずそうにしている人形に向けて右手を伸ばした。逃げる素振りも、抵抗する素振りも見せない人形は、男の手が伸びてきても、ちらと視線をやるだけで微動だにしない。

 男はそっと、人形の黒髪に手のひらを添える。雲か霧を掴んでいるかのように現実味が無く、羽毛の先を撫でているような、柔い感触がした。そのままそっと、丁寧に人形の頭を撫でてやると、人形はぎゅっと唇を引き結び、全身を強張らせた。

「また明日」

 ぽん、と優しく人形の頭に手を置いてから、男は人形に背を向けた。男の背が遠ざかっていくのを、人形はそっと椅子から立ち上がり、いつまでも、いつまでも、見送っていた。


 人形の頭には、まだ男の手のひらの感触が、残っていた。

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