【4】

 男は再び、同じ路を歩いていた。

 やがて、例の空間に辿り着き、目当ての物がある筈の場所を振り向く……前に、人形は、今日は男が直進してきた路の先に居た。

 一応振り向いてみれば、椅子はいつも通りの場所に四つ足を据え、寂しく己の主人の居場所を空けたまま、その帰りを待っているようだった。

 はて、問題は、この空間の奥に居所を移した人形の方だ。

 男は、そのまま軌道を変えることなく直進し、此方に背を向け座りこむ人形に歩み寄った。背後に立ったところで、声をかけてやる。

「今日は其処なんだな」

 びく、と人形は今気付いたといったふうに、慌てて男に振り向く。人形はしどろもどろに「あ、あ」と声を漏らし、狼狽した様子を見せていた。

 そんな人形のいつもとは違った様子に、男はゆるりと首を傾げる。

「そんなに慌てる事があったのか?」

「いや、違」

 取り繕うように人形は弁明を口に出そうとするが、如何せん言い訳が思い当たらないようだった。男は、あの無感情な人形をここまで人らしく変えた何かが気になり、人形の正面に回り込もうと一歩を踏み込む。

「だめ」

 人形は、座ったまま男の体を押し止めた。腹の辺りをぐいと押され、男は思わず足を止める。華奢な腕から伸びる手のひらと、先から覗く白魚の様な指先は、男が思っていたよりも、力があった。その事に驚き、男は人形の姿を目を丸くして、見下ろす。

「今は、だめ」

「お前、意外としっかりしてるんだな」

「え」

 話が噛み合わないと思ったのか、人形はきょとんとした顔を男に向けた。見下ろす男の顔もきょとんとして、見上げる人形の顔もきょとんとしている。何処か不思議な絵面だった。

 人形の絹糸のような黒髪がさらりと流れ、清流が流れ落ちるのを彷彿とさせる。綺麗だ、と男は思った。

「君はもっと、誰かに弄ばれ、守られる立場の人間だと思ってた」

 人形は、男の言った事に、すぐには言葉を返さなかった。ただじっと男を見つめ、しかし何処か歯痒そうに唇を引き結び、視線を反らして、何かを耐えているかのような表情を作る。

 男は人形が何故、そんな顔をするのか、わからなかった。

「気を悪くしたかな、ごめんね」

「違うよ」

 人形は、今度はすぐに言葉を発した。

「そういうんじゃ、ないよ」

「そっか」

 男は、それ以上踏み込んではいけないと感じ、この話題を続ける事を辞めた。

 それはそうと、先程人形は、何を隠していたのだろう。完全に男にだけ注意が注がれている人形の様子を見て取り、男はさっと反復横跳びの要領で右側にすいっと飛び、容易く逃れた男に対して「あ」と間の抜けた声を漏らす人形を無視して、男は人形が隠していたものを視界に映した。

「……漫画?」

 人形は慌てて、積まれていた数冊の漫画を、己の身体で覆うように隠した。きっ、と睨むような目つきを男に向ける人形だったが、羞恥に濡れた目元と、白磁の色をしていた頬は熱を帯びて紅潮し、なんとも愛らしい。

「漫画、読むんだ」

 人形は、何も答えない。

「いいじゃん、どういうものが好きなの?」

 男はその場にしゃがみ、柔和な笑みを浮かべた。男はただ純粋に、人形の好きなものを知りたいだけだった。変にからかってやろう等という下賎な考えはこれっぽっちも頭に浮かぶ事はなく、寧ろ男の方も漫画は好きであったし、好きなものを共有できたらと、その一心で掛けた言葉であった。

 人形は、男のその心根の歪みの無さを察したか、緊張の糸を緩め、おずおずと積み上がった数冊の本を、男の前に差し出す。

 男はその本の表紙に見覚えがあった。確か、友情、努力、勝利をうたう、一昔前の少年漫画だった。

「意外。こういうの好きなんだ」

「……駄目だったら、もう読まないから、だから、」

「どうして? 何か駄目な理由があるのか」

 男の問いに、人形はふっと、視線を反らした。その口は固く引き結ばれ、何かを耐えている様子だ。

 言ってはいけないと、誰かに口止めされているか、若しくは後ろめたいことでもあるのかもしれないと、男は思った。

「好きなものを、わざわざ手放す必要はないよ。他人の目を気にする必要はない」

 男は人形に出来るだけ優しく語りかける。弟か妹を相手にしているようだと感じた。

「君は君だけの好きを大事にしておけばいい、それは誰にも邪魔されるような事じゃないから」

「邪魔は、されるよ」

「それじゃあ、こっそり楽しもう。自分を殺して好きなものを失うくらいなら、隠れて楽しむ方がよほど健全だ。その方が、君だっていいだろ?」

 男の言葉に、人形は暫く思案するように目を伏せた。男は辛抱強く人形の返答を待ち、だがなかなか答えを見出だせないでいる人形に、少し助け舟を出してやろうかと、慎重に口を開く。

「俺もそれ、好きだからさ。一緒にこっそり、共有しないか」

「……うん」

 男の誘いに、人形は首肯した。

 緊張した面持ちながら、どこか安心した顔つきになる人形の様子を見て、男の方も心中穏やかになり、ほとりと破顔した。

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