【6】

 最早男にとっては、毎日の日課となった、人形に会いに空白へと向かう路すがら。

 今日は少し、変な時間に出向いてやろう。そう決めていた男は、いつも行くのとは違う時間を狙って、その場所へと向かっていた。

 妙な時間にいつもの男が現れたとなれば、うつくしい人形のあの冷めた能面を、羞恥以外の何かしらの感情の色に、また染める事が出来るかもしれない。そう思うと、男の心は期待に揺れ、自然とその場所へと向かう足取りも、軽やかなものになるのだった。

 幻聴のように沈む足音を鳴らしながら、男がその場所へ辿り着くと、人形はすぐ男の視界の中に映った。人形は、以前本を読んでいたときと同じ場所で、同じような姿勢で座り込んでいた。

 さては、また漫画を読んでいるな。そう見当つけた男は、また以前と同じように人形の背後へ、そっと近付いた。

「今日は、何を読んでるんだ?」

 男が問いかけると、人形はゆっくりと、男に振り向いた。

 人形は虚ろな表情で、無感情に男を数秒見つめた後「ああ」と漸く男の顔を思い出したかのように、か細い声を漏らした。

 人形の近くに、本は無かった。

「……どうした?」

 男が問うと、人形は表情一つ変えずに、口を開く。

「何でもないです」

「何でもない事はないだろ」

「言えば、何かしてくれるんですか」

 はっきりとした拒否の姿勢。男は今までとは比べ物にならない程に、人形との途方もない心理的な距離を感じた。一体、何があったと云うのだろう。男は、人形の抱える心理の糸口を探る為、人形の様子を、じっと観察してみた。

 見返り美人の目は胡乱で細く、気怠げで、肩に掛かった細い黒髪が艶めかしい。男は、背後に居ながらさらに人形に近付き、背のすぐ後ろでしゃがみ込む。人形は、不快そうに一瞬眉を顰めたが、すぐに抜け落ちたような無表情に戻った。

 男はスン、と鼻を鳴らす。花に近い、女の匂いがした。

「何か困っているのであれば、解決策を一緒に考える事くらいは出来るかもしれない」

 男の提案に、人形は微動だにしない。

「話してくれないか」

 人形は、男に背を向けた。

「なあ」

 男は人形の正面に回り込んだ。

 人形は項垂れ、足を割座の形にしてぺたんと座り込んでおり、脱力した腕と、力の抜けた肩が、何とも哀愁に満ちて、寂しかった。

 と、男は気付く。人形の着衣が、少し乱れていた。まるで乱暴をされた後に、不自然ではない程度に直したような、そんな具合だ。まさか、そんなことはあるまい、と男は脳裏に浮かんでしまった仄暗い考えを、慌ててかぶりを振って、霧散させた。

「俺は、君の力になりたい」

「そうですか」

 人形は淡々としていた。その言葉に、何の感情も込められてはいない。男はいよいよ虚しくなって、歯痒さを覚え、唇を濡らし、どうすればいいのかわからず、途方に暮れてしまった。

 人形は、己に助けを求めてはいない。けれど、自分はこの人形を助けてやりたい。この人形の抱えているものを共有したい。どうすれば歩み寄れるだろう、どうすれば。

「人形の、四肢を縛って、押し入れに入れておく、」

 人形は、不意に思い出したように語りだす。唐突に語り部となった目の前の人形の声に、男は必死に耳を傾けた。人形の声は詠うようでもあり、虚ろに独り言を漏らしているようにも聞こえる。

「飽きて、ベランダに吊るして置く。雪の積もった日に、白い穴を掘って、人形を埋める。持ち帰って、壁に叩きつけて、足で踏み、転がす。裁縫針で腕や胴を刺す。刺したまま、一晩放置する。針を引き抜いて、鋏で腹を裂き、綿を出す。四肢を捥ぐ。目は、引き抜いた針で潰しておく、ちゃんと中央を狙って。それから最後に、喉を鋏で裂く。残骸は、ゴミ箱に捨てる。燃えるゴミの日がいつかわからないから、袋に纏めただけで、いつまでも、いつまでも、廊下に置き去りにされたままだ。人形は、ずうっと、女の子の生活する音を、袋の中で聴いている」

 人形はあまり息継ぎをせず、淡々と小さな口でそれを言葉として紡ぐと、話は終えたとばかりに、すっと目前の男の目を見据えた。その目には諦観と、軽蔑の色が浮かんでいる。

 男は言葉を失い、ただ黙って、人形の目を見つめ返した。

「君だったら、人形をどうする? 女の子を、どうする?」

 その問いが、今後の人形との関係の全てを左右すると、男は無意識に確信した。慎重に言葉を考え、思考し、思考し、最善策を練る。けれど、男の脳裏に浮かぶ回答は、どれも男の中では的を外しているように感じられ、すぐには返答してやることが出来なかった。

 考えて、考えて。しかしはっきりと自信を持った回答に辿り着けなかった男は、諦めた。男もまた、淡々と、人形に詠うように返す事にした。

「……人形を連れていく。女の子にバレずに、こっそり。それから、持ち帰った人形を、自分なりに元に戻して、いつも自分の目の届く場所に置いておくよ」

 男は、観念したように肩を落とし、俯いた。人形もまた、すぐには反応を示さず、暫し思案に耽りだす。失望しただろうか、男はそう思った。

 やがて一つ口を開いた人形は、男にそっと、声を掛けた。

「明日は今日よりも、少し早い時間にここに来るといい。そうだな、三十分くらい前なら、適当かな」

 男は顔を上げた。

 人形の表情は、どろりと濃い闇を纏いながらも、何処か、期待の乗ったような、そんな顔をしていた。

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