怪物と少女②

 耳障りなノイズのような、金切音が脳の内側で響く。その音は次第にチューニングされていき、聞き覚えのある声に変わった。


『何度もいうように、君は──』 


 うっ、と鈍い痛みが走る頭を庇いながら、目を擦る。瞼から手のひらの熱を感じる。微睡の中、というにはいささか意識がはっきりとしていた。

 そこは月のない夜のような暗闇で、手をついた地面が硬く冷たいリノリウムの床であることだけかろうじてわかる。

 なにがあったのか。ついさっきの、あの女の、突発的で狂気的な犯行はなんだったのかと思いながら顔をあげる。

 すると視線の先に、天井から吊るされた丸い照明の褪せた黄色い光が見えた。それは夜の海に浮かぶ孤独な灯浮標のあの光と酷似していて、不思議と安心感を覚えた。


『──決断しなければならない。君が普通の生活を望むのならば尚更だ』

 

 長い間眠っていたような、鈍い体を動かして立ち上がり、その光に向かって歩く。

 前にもこうやって夜を歩いたことがあった。それは楽しい記憶などではなく、孤独と罪悪感に浸かっていたが、それでも目に映る景色はそれをものともせずに美しかった。


 足元に何かがぶつかって、倒れた。


「なんで、こんなところに」


 うつ伏せに倒れたその黒と白の生き物は、いつか動物の図鑑で見たものよりも大きくてずんぐりむっくりで、そのせいで愛らしさよりかは不細工さが多少勝っていた。


 そんな風に見下ろすおれを、ペンギンたちは不思議そうに眺めている。しかし、すぐに彼らは自らの『仕事』を思い出したように、その歩くには不都合な両足でぺちぺちと硬い床を叩きながら光の方へと向かっていく。


「おい、ちょっと」と口に出したところで、自らがしようとした間抜けな言動に頭をかく。ペンギンに尋ねてどうする。


 しかし。それも仕方なしと、群れの後ろについて、彼らの向かう先になにかがあると信じ歩く。

 夢の中の出来事のように、その奇妙な一団は暗闇の中を光の方へと歩く。

 歩幅は手のひらの一つ分ほどではあるが、その歩調は一定であった。


◆ ◇ ◇


 足元の暗がりでまるい頭が揺れている。しばらくののち、一団はその光源のすぐそばにまでたどり着いた。

 そこにあったのは、どこにでもある平凡な劇場の舞台であった。ただ、ここは近所の文化ホールでもなければ、いつか両親に連れられて退屈な古典を学んだ帝国劇場でもない。その場違いさは不気味というよりも、滑稽味を醸している。なにより『客席のない舞台』というのが、なんとも可笑しな景色だ。観客を想定していないその舞台という、何かの諺やアイロニーをそのまま形にしたような馬鹿馬鹿しさがその寒々しいステージの上に漂っている。

 先頭を歩いていた一匹のペンギンがぴょんと跳ねて光の前に躍り出る。強い光を受け、柔らかい曲線のシルエットが舞台の白い壁に映った。

 光を放っていたのは飾り気のない、古い形のサーチライトであったことに気がつく。銀色半球のサーチライトは、劇場のステージだけでなく、各々に好き勝手な方向を向いているのだ。

 おれは明かりを得て、やっとそのステージのそばで一息をつく。旅を共にしたペンギンの一団は、床に垂れたステージの暗幕の上で泳いだり、スロープの段差に背中を擦り付けたりと、好き勝手に過ごしている。眩い光の中に彼らの影が伸びて消える。

 その様子を見ていると、偏頭痛とともにやってくる滲んだ視界や、起き抜けの朦朧とした意識で周囲を見渡したときような捉えどころのない光景と似ているように思う。

 そうして記憶と、意識と、目の前の光景とのズレが正されていく。

 群れていたペンギンのうちの一匹が舞台のはじから落ちた。後ろから押し出されたように見えた。その無慈悲な習性についてどこかで見聞きした気がしたが、落ちたその一匹が腹から落ちる様が、あまりに間抜けすぎたのでそんなことはすぐに忘れてしまった。


「そうだ」


 その代わりおれ自身があの女に突き落とされたとき、耳元で聞こえた言葉を思い出した。


『先に舞台に立って待っていて』



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