私の愛しき怪物よ

七つ味

序章 怪物と少女①

 薄明の中で怪物に出会う。


 夜の暗闇を思わせる黒い躰はいびつな形に隆起して、あなたの真っ赤な瞳は私を飲み込んでしまいそうなほど大きかった。そしてあなたはその牙で、爪で、トゲトゲの尻尾で私の住むこの街をめちゃくちゃに壊す。赤い屋根の家も、くすんだクリーム色の学校も、だれの声も聞こえなくなったあの公園も、すべてを瓦礫に変えていく。

 空には薄らいだ月が漂っていて、もうすぐ夢が醒めてしまうことを教えてくれる。

 怪物は冷たい夜の、息苦しい静けさを食い破るように、空に向かって咆哮する。私は街を見渡せる高い場所に立って、怪物が遠くへ行ってしまうのを眺めている。むかし見た映画の一場面。そういう終わりを待ち焦がれている。



 差出人:○○付属病院 上田信也


 宛先:木崎杏里


 件名:特Ⅰ型患者(A)の症状について


 本文;「上田です。連絡いただいた件について返答せていただきます。まず、ご存知だと思いますが、今一度「ミレニアム・ベビー・シンドローム」(以下MBS)の説明をさせていただきます。

 以前までは「MBS」を2000年に出生した小児にみられる原因不明の疾患及び、それに伴った身体障害のことと定義していましたが、現在ではその年齢を問わず、症状の特異性などから総合的に判断して「MBS」の認定がなされています。

 ただご存知の通り、「MBS」の症状に共通性はないため、実際は「医学的に分類できない特異な症例」を一時的に関連付けてそう呼んでいるわけです。

 現在治療を継続している患者は、日本では200名ほどで、未だ医療機関で確認または認定されていない潜在患者も相当数いるものと考えられています。「MBS」を専門とする医師はいないため、メンタルケアと並行し、症状の発現した器官によっては経過観察を主とした治療が行われています。ただ残念ながら行政的な問題を含め、医療福祉的な側面は整備されているとは言えません。


 本題に入りますが、経過観察中の患者A(現在17歳)は11歳の時に発症。「ミレニアム・ベビー・シンドローム患者の保護等に関する法律」(平成28年当時)により特定Ⅰ種患者に指定されています。Aの症状は心拍数の上昇に伴って…」


◆◇◇


 【校舎の窓枠に映る景色は殺風景なものだ。連峰とは呼ぶに足らない山々、すそ野に広がる街と、真ん中に国道バイパスが横たわる。それに並行する線路と、臨海部の工業地帯、鉛色の駅。昔日の経済的興隆からゆっくりと時間をかけて朽ちていった年老いた街。そんな街を見下ろす高台に建っている公立の高校、その窓際の席に座っているのがこの物語の主人公である少年である。

 艶のある黒のくせ髪を指で梳かしながらたぶんこんなことを考えていたと思う】


 校庭で不良がバイクを乗り回してもいなければ、屋上から儚げな少女が、まさに今飛び降りようとしているわけでもない。とても「安全」で「安心」だ。

 おれはノートの端っこに意味もなく渦巻きをかきながら教師の話を聴いている。

「チャールズ・ダーウィンは自らの著書『種の起源』の中で、自然選択説を唱え…」

 その一言からペン先をくるくると回すのをやめ、露の滴る洞窟の片隅でホモ・サピエンスのつがいが身を寄せ合っているところを想像する。洞窟の外では偏西風に乗ってきた雪が、地表を真白に覆い続けている。

 彼らは抱き合い、互いを温める以外のすべを持たない。その暗く冷たい時間で、二匹のヒトは何を思っただろうか。重い口を開き、震えた唇で意思をもって音を発したのかもしれない。そのとき発した言葉が何であったのか、さっぱり見当がつかなかった。


 そしてこういう取り留めのない妄想の後には、白紙のノートだけが残る。

「露の降りた朝、クモの巣が水滴によって美しく光っているのを見たことはないですか?これはクモの糸が持つユニークな構造が関係し・・・」

 光る蜘蛛の糸。地獄に落ちた罪人の、救いようのない物語が頭に浮かんだ。

 カツンと音がしてチョークが割れる。教卓の横、半ばまで開いた窓からは冷たい風が吹き込んできて、薄緑のカーテンがふくらんではしぼんでを繰り返している。板書をしていた教師は手を止め、煩わし気に窓をぴしゃりと閉める。ここ数日は、10月らしい肌寒い日が続いていた。


「今日はここまでです。日直は」


 号令がかかり、授業はここまでのようだ。


「玄倉君、この後職員室に来てください」


 窓際の席にみんなの顔が向いて、それにちょっと戸惑う。おれは集まった好奇の視線を振り払うように、早足で教室から出ていこうとする。瞬間、つま先は横開きのドアのレーンにぶつかって、身体はよろけ、膝をついた。そして後ろで誰かがクスリと笑った。

 

【彼は膝の痛みと誰かの嘲笑を抱えながら、ゆっくりと立ち上がる。勘違いしないでほしい。こういう始まりがふさわしいと私は思うのだ。なぜならこれから語るのは、痛みを伴う物語なのだから】

 


◇◆◇


 職員室の匂いというものがどんなものか想像しづらい人に、手っ取り早く伝えるにはどんな言葉が適切だろう。おじさんの脂汗と、おばさんの化粧の匂いを混ぜ合わせ、そこに少しのインクの匂い。そう言えば想像がつくだろうか。むろんおれはその匂いが大嫌いだ。

 反抗的な思考を手の内に握った消しゴムと共に、くるくると転がしながら、目の前にいる男性教諭の話を聞いていたら、だんだんとその匂いが自らにも染み付いていくような錯覚を覚える。


「どちらにしてもこれ以上は待てないよ。先生たちの印象も悪くなるからね。親御さんと話し合ってね、『当たり前のこと』はやってくれないと」


 分かりましたとは言わなかった。それでは嘘をつくことになってしまう。職員室のドアが閉まると同時に渡された紙をくしゃりと握りつぶして、廊下の隅っこのごみ箱に投げ入れる。ほんとうにどちらでもよかったけれど、丸めた進路希望のプリントはゴミ箱の開いた口にきれいに吸い込まれていった。

 後ろから廊下の床を踏む音が聞こえてきたので、知らん顔で階段を上って教室に帰ろうとする。


「今さ、何を捨てたの?」


 澄んだ声がした。もしかしたら、その行動を見られたバツの悪さからくる冷たい感覚が、おれにそう誤認させたのかもしれない。

 仕方ないので振り返ると、そこには少女がレザーの学生鞄を抱えて立っていた。気味の悪い沈んだ目を、重苦しい黒い前髪の隙間から覗かせている。よかった、先生じゃなかったと胸をなでおろして、おれは彼女を無視したまま階段を上る。

 断っておくが、同じ学校の生徒に話しかけられておいて無視するような無愛想な人間ではない。


 彼女は『喋らなくていい子』なのだ。


 彼女、伊藤サチがどのような経緯でそんな風になったかなんてことは知らないけれど、この美咲高校に入学して同じクラスになった時はもう、はるか昔からそうであったように孤立していた。

 よくいる、閉鎖的なコミュニティにおいて古くからの習わしでハブにされている可哀想な子。同じ中学校であったらしい数名の生徒はとても自然な態度で彼女を無視していたし、なにやら良くない噂話も流れていた。具体的なことは分からないが、伊藤サチの父親はハンザイでタイホされたとかなんとか。

 いじめというほど過激でもない。低温やけどのようなクラスメートたちの拒絶を受けて、彼女は教室の端に追いやられしまっていた。

 そういう記憶がある。

 俺はそれをみて、「まあ、そういうこともあるか」と思った。この様子だと彼女は変わらず教室の隅の住人なんだろう。

 ふと耳を立てると、階段を上る足音がすぐ後ろで聞こえてくる。それを不快に感じて、おれの足は次第に踏み出すのが速くなっていく。夕日が差し込む昼過ぎの校舎の階段。その吹き抜けの空間に輪唱じみた二つの足音が響いている。


「玄倉君、先週の金曜日、あそこの病院にいたでしょ」


 後ろから彼女の声がして、それは放課後の静けさの中、よく響いた。おれはとっさに振り返り「いない」と返してしまった。まだ、どこの病院かを聞いていないのに。


「そう?でも似てたんだけどな」


「知らない」


 依然として、階段を登るとそれに合わせてついてくる。


「実は駅前のコンビニで見つけて、ついていったの。附属病院の前」


俺は振り返って彼女に言ってやりたかった。「そんなんだから嫌われるんだ」「できれば俺の見えないとこで不幸になってくれ」と。腹の奥が蠢き出して、皮膚がキリキリと渇いていく。


「玄倉くん、ビョーキなんでしょ」


「だったら?」


 おれは彼女を突き落としたくて、振り返る。 


「そのビョーキ、治してあげようか?」


【この会話に、少しでも興味を示してくれたなら、彼の身の上話を少しだけ聞いてほしい。】


◇◇◆


 目線の先では男子中学生の集団が、お揃いのエナメルのバッグを肩にかけて通りを駆けていく。

 放課後、家に帰る時間だが、俺はいつもとは違って待ち合わせの約束を取り付けていた。

 相手はもちろん、伊藤サチ。

 俺は学校から少し東に行った最寄り駅、その裏のパーテーションで作られた喫煙所の側で彼女を待っていた。

 凹凸のアスファルトの上に、鳩のフン、踏まれて散り散りになったタバコの燃えかす、壁には誰かが吹き付けたスプレーのイラスト。 フェンスで隔てられた、向こうの通りに見える人ごみの喧しさは、なんだかとても遠く、湖の対岸にでもあるように感じる。


「ごめん、遅れた」


 曲がり角の壁の陰から彼女はひょいと現れる。前かがみな両肩、伏せた目。相変わらず気の滅入る奴だと思いながら、「別に」と相槌をうった。


「タバコ吸うの?」


 彼女は俺の後ろにある円柱の灰皿に目をやる。


「駅の近くで人目につかない場所は、ここぐらいだろ」

 クラスメートに見られる心配と、女子と二人だけで会うことの居心地悪さがこの場所を選択させたのだが、彼女はどうもそれに気が付かないようだった。


「変な勘違いされても困るだろ」


「ふぅん」 


 彼女は興味なさげに、セーラー服のタイを弄んでいる。


「なんで駅前なんだ?」


「16時58分の電車に乗るから」


 彼女はその疑問に簡潔に答える。簡潔すぎて不十分ではあるけれど。気遣いは不要だが、もう少し愛想ってものは無いのだろうか?いや、それはおれだって同じことか。


 ワイシャツの袖を手繰って、腕時計を見る。今が、52分。


「じゃあ、もうホームに行こうぜ」


 そう促すと、彼女は「そうだね」とだけつぶやいて、駅のコンコースへ歩きはじめた。俺もその二歩、三歩後ろをついていく。上りの電車に乗れば、再開発が進む郊外の住宅地。下りはそれなりに栄えた繁華街へ、そしていずれ海岸線に出ると小さな海水浴場の最寄り駅で終点となる。


「花岡団地の方に行くから」


改札を通り抜けるころ、彼女がさっきの言葉を補足する。電光掲示板には16時58分、白波海岸ゆきの表示が出ている。


「ああ、あの丘の上の団地か」


 有名なわけではないが、中規模の団地で地元の人間ならば必ず知っている。駅から下りの電車に乗ればその車窓から、クリーム色の建物が等間隔に並んでいるのを見ることができる。この駅からは五つほど離れているが、二十分ほどで着くはずだ。


「行ったことあるの?」


 前を歩く彼女が、階段をのぼりながら振り返る。


「いや、知ってるだけ」


 彼女は俺の返事に「そっか」とだけ反応して、前を向きなおす。安っぽいレザーの学生カバン、そのグレーの取手を肩に掛けなおすと握る手がちらりとのぞく。細くて、白くて、だけど少しだけ桃色がさしていて、幼い。本音を言えば彼女の言葉をそのまま信じているわけではない。


 だって大人達もそれなりに必死になって、この病気のことを調べてるんだ。その治療方法なんてのがこんな小さな少女に導き出せるはずなんてない。

 でもどうしてだろうか。精神のゆっくりとしていて柔らかい部分が、彼女の言葉にほんの少しだけ期待してしまっていた。


「なに?」


 彼女が再度、その細い首をひねり振り返る。


「いいや、何でもない」


 階段を登った先のホームには、いつも教室の窓から見える、あの角の丸いまぬけな黄色の電車が停まっていた。電車に乗り込むと、ちょうど人々の生活の隙間の時間で帰宅ラッシュにはずれているせいか、座る席には余裕があった。

 彼女の向かいに座って、学生服の襟を少し緩める。電車の揺れの間隔は次第に加速していき、やがて心地よい音へと変わった。

 ポケットからイヤホンを取り出して、両耳に押し込む。スマートフォンの再生ボタンを親指で触ると、透明感のある女性の声が、やさしい歌詞を歌い上げる。目的地は花岡団地。俺と彼女は別々の席で、同じ方向へ進んでいく。

 伊藤サチ。彼女を初めて見たのは、高校の入学式終わりの教室の隅、今と変わらず一人だった。明るさのない長くのびた黒髪は、鉛のように重たそうで、顔は常時斜め下を向いていた。

  そんなことを考えているうちに睡魔がそっと瞼を覆う。


「つぎは花岡団地前、花岡団地前」


 音楽を遮るブレーキの音と、軽妙なアナウンス。次第に窓枠を流れる風景が、ゆっくりと定まっていく。イヤホンを外すと、空気の抜ける音がして、車両のドアが勢いよく開いた。


「降りるから」


 彼女に連れられて、プラットホームに降りると、おれたちは人の流れに身を任せて、改札を出る。 彼女はそのまま、白いアパートが連なる坂道を登っていく。この団地に住む子供たちだろうか、時折、坂を下っていく自転車の集団とすれ違った。ぽつぽつと庭のある一軒家が建っていて、手の入れられていない 空き地には物件情報の看板を隠すように雑草が鬱蒼としている。


「そろそろ話してくれよ」


「ついてくれば分かる」


 垣根のつづく坂道の中腹で彼女は足を止める。目線の先には、小さな一軒家があった。


「ここ、お前ん家か?」


 彼女が慣れた足取りで敷地に踏み入るので、そう尋ねる。


「うん、私の家」


 だが、俺は、玄関に張られた紙を見て、反論する。


「空き家だろ、ここ」


「今はね」


 「なら、お前の家はここじゃないだろ」とは言わなかった。こいつのことなんて知る必要もないし、「地雷」とかは踏まずにしておくのが正しいはずだ。彼女はその小さな赤い屋根の家の、少しばかり庭に入っていき、隅にある塗装の禿げた物置の前で立ち止まった。


「これ、開けてくれる?」


 特に施錠はされていないので、錆びついた取手を両手で握る。


「はいはい、開ければいいんだろ」


「お願い」


 重い。レールで砂を噛む音がして、ゆっくりと開いた。と同時に目に映ったのは、砂埃を被った日用品の数々、などではなく、真っ暗な『穴』だった。そこにあるはずの倉庫の床にはひび割れたような裂け目があり、その穴からのぞくはずの地面はなく、底の見えない暗闇だけがあった。

 その異様な光景に目を奪われ、立ち尽くしていると、背中に手のひらの重みを感じた。驚く間もなく体はバランスを失い、その底の見えない『穴』へと落ちていく。

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