第11話 長崎からのたより

 抜けるような青い空に、爽やかな風がわたる日の午後。

 青海川あおみがわの堤を青海藩筆頭家老、橘厳慎たちばなげんしんが、手に小さな包みを抱え、供も連れずに歩いている。


 青海藩の領内を南北に貫く青海川は、山間部から平野に流れ出たところ川幅を広げ、大きく蛇行して海に注いでいる。青海川の水が溢れないよう、蛇行する川の縁を巡るように築かれた堤の上には桜並木がつづき、淀んだ水面に涼しげな影を落としていた。


 そんな桜の木陰の下で釣り糸を垂れるひとりの武士をみつけると、橘は堤を降りて近づいていった。


「釣れているのか」

「ああ」


 武士の魚籠びくを覗き込む。なかは空っぽだ。


「釣れていないではないか」

「たったいま、を釣りあげたところだ」


 斎兵庫いつきひょうごは、怪訝な顔をした橘の鼻を指さした。


「兵庫。太公望になったつもりか?」

「彦右衛門こそ。周の文王かよ」


 そう言ってひとしきり笑いあうと、親友同士のふたりは堤の草の上に並んで腰を下ろした。

 初夏の太陽が、水面できらめき踊っている。橘は、兵庫との間で提げてきた包みをほどいた。あらわれたのは、半透明のみずみずしい菓子――葛餅くずもちである。


「気が利くな」

「明石屋の葛餅だ。うまいぞ」


 添えられた楊枝で口に運ぶと、ほんのりとした甘みが舌を喜ばせた。

 ふたり黙ったまま、葛餅を味わう。


 さきに口を開いたのは、橘だった。


「長崎から送り返された奥女中総取締、霞川かすみかわがようやく口を割った」

「そうか」

「毒を渡した者の名も知れた。霞川に毒を渡したのは、元御徒組、板野新二郎だ」

「……」


 兵庫は、口に葛餅をほおばったまま、青海川の水面を眺め続けている。


「驚かんな。江戸から出奔し、行方をくらませたあの板野新二郎だぞ。斎道場はじまって以来の天才といわれた……」

「絵都が、文を寄越してな」

 

 兵庫は、その懐から一通の手紙を取り出して橘に手渡した。絵都がしたためた長崎からの便りである。

 すばやく目を走らせた橘は、息を飲んだ。


「これは……!」

「板野喜十郎は、よく勤めを果たしたようだな。奥方様を守って負った傷が意外に重く、絵都と共に青海へ戻ってくるそうだ。そこには――板野新二郎と会ったとも書かれていた。やつについては思い当たることが多すぎて、驚きはせん」


 喜十郎の兄、板野新二郎は、斎道場はじまって以来の天才と呼ばれた遣い手だった。藩校での成績も極めて優秀で、藩主の覚えもめでたく、参勤交代のお供に江戸詰めを命じられたほどの俊才でもあった。


「頭が良すぎた。余人には見えぬものがやつには見えたのだろう」


 新二郎は、江戸在府中に攘夷思想に感化され、上方へと行方をくらました。

 当主の不始末で板野家は、あわや取り潰しとなるところ、喜十郎たちが奔走し、家禄半減の処置で家名をつないだことは、家中では知らぬ者のない話だ。


「しかし、戻ってきていたとは。あの方の豹変も、あの方が京の不逞浪士と繋がっていた謎も、これで解けた。板野新二郎が、あの方の懐刀に収まっていたのだな」

「あの方だけならともかく、板野新二郎がとなれば……あたまが痛い」


 それきりふたりは、ふたたび黙りこくって、葛餅をほおばり続けた。


 しかし、いまは思い悩んでも仕方がないときなのかもしれない。藩内の騒動だけに収まらない。青海藩の周囲には、きなくさい匂いが立ち込めはじめているのだ。いまはただ、この穏やかな午後の日を楽しむのが正しいのかもしれない。


「ところで彦右衛門」

「なんだ」

「絵都の文にある『ざっはとるて』とはなんだ」

「……西洋の菓子かな?」


 意外と甘いものに目がないふたりの間で、帰ってきたら絵都に作らせようと話がまとまるのは、また別の話である。


(了)

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