青海剣客伝 ―薫風長崎篇―

藤光

第1話 不審な出来事

 すっかり葉桜となった斎道場の桜の木が、苔むした地面に涼しげな影を落とす昼下がり。道場主である斎兵庫いつきひょうごは、爽やかな風のとおる座敷に青海藩筆頭家老、橘厳慎たちばなげんしんを迎えていた。


「いい季節になった」

「そうか」

「一年で一番気持ちのいい頃合いだ」

「それほどでもなかろう」


 掃き清められた中庭を眺めながら、橘が述べた感慨に、兵庫はにべもないが、若いの頃から付き合いがあり兵庫の性格を熟知している橘は動じない。


「自然と体が動き出す――そんな心持ちにならんか、兵庫」

「彦右衛門」

「せんだって、城内の花見の会であったことだが……」

「彦右衛門!」


 かまわず話し続ける橘を兵庫の声が遮った。彦右衛門は橘の通称である。


「時候のあいさつにきたわけではなかろう。用件をいえ」

「風情というものを解さぬ男だな。よかろう」


 橘は座布団に上で居ずまいを正した。


「まだ、公にはされていないが、公儀から藩へ賦役の内示があってな」

「賦役? また幕府から新しいお役目を押し付けられたということか」

「言葉は穏当でないが……、要はそういうことだ」

「またぞろ兵を出せというわけでもあるまい」


 昨年、京で騒動を起こした長州藩を征伐すると称して、幕府の命令で西国各藩に動員がかけられたことを指して兵庫がいった。


「当たらずとも、遠からずといったところだ。公儀からの命令は『すみやかに長崎警備を補佐し、海防を厚くせよ』と」

「長崎警備?」


 兵庫は眉をひそめた。外国に対する鎖国政策は、江戸幕府200年来の国是であり、外国との交易は長崎において幕府が独占してきた歴史がある。交易窓口である天領・長崎の警備は、これまで北九州の大藩、福岡藩と佐賀藩が一年交代で勤めてきた。黒船来航により、鎖国の禁は破れたとはいえ、外国との交易窓口としての長崎の重要性はいささかも低下していない。先年も、ロシアの船が長崎に現れ大騒ぎとなったばかりだ。


「福岡、佐賀を差し置いてか」

「きなくさい世情に公儀も敏感になっている」

「異国、黒船の脅威は、西国にまで及んできたと」

「……そればかりとも限らんが。とにかく、藩としては早急に対処しなければならん」

「むろんだが、それがこの隠居となんの関係がある」


 兵庫は、昨年まで勤めていた藩の剣術指南役としての役目を息子の隼人に譲り、いまは斎道場の道場主として隠居の日々を送っている。藩政においてなんら権能をもたず、ひとりの剣術家でしかない。


「殿が、みずから長崎へおいでになる」

「まさか」

「いまはそうしたことが求められる時代。藩公も承知の上での長崎入りだ。ついては、率いてゆかれる鉄砲隊300のほかに、藩公警護の人員が必要だ」

「むろんだが、ますますお役目を辞したわしに関わる話とは思えんが」


 橘は不審がる兵庫を制して、藩の秘められた内情を語りはじめた。


「おぬしも知ってのことと思うが、昨年、殿は亡くなられた先の奥方様に代わる後添いを迎えられた。青海藩宝川家とは遠縁にあたる赤城藩海北家から迎えた姫君でとしは十八。お会いしたこともあるが、聡明で、美しく、心優しいと三拍子揃った稀に見る女性にょしょうだ。藩公との夫婦仲も睦まじく、今回の長崎行きにも同伴される予定になっている。


「ところが、つい先日、奥御殿で不審な出来事が出来しゅったいした。奥女中の持参した菓子のなかに毒が盛られたのだ」

「毒が?」


 思わず声をあげそうになって兵庫が口元をおさえる。


「奥方様の飼い犬が、与えられた菓子に仕込まれていた毒に当たり、血を吐いて死んだ。奥御殿は一日、上を下への大騒ぎであったようだ。それが表御殿へ伝わったのが一昨日のこと。殿は、驚かれるとともに、たいそうお怒りになられ――」


 無理もない。場合が場合なら、奥方が毒を口にするかもしれなかったということだ。想像するだに恐ろしいことである。


「いったい何者が」

「わからん。ただ、奥方のお郷里さとであるところの赤城藩の藩主、海北信盛公は、急進的な開国派として知られた方で、全国の攘夷派から敵視されている」


 橘は、いったん言葉を切り、一段と声を低くした。


「じつは藩内にも、少数ではあるが攘夷を唱える者たちがいる。なかには公然と今回の婚儀に反対する動きもあったのだ。奥方様を通じて殿が、赤城藩の信盛公に影響されるのではないかと。その意見の中心にいたのが……」

「あの方……か!」


 あの方と、兵庫がその名をはばかったのは、先代藩主の腹違いの兄で、現藩主の伯父に当たる人物、宝川茂実たからがわもちざね。通称「奇妙公」と呼ばれる老人である。先代藩主がなくなって以降、政治的発言を強めてきた藩内きっての攘夷派と目される人物で、昨年、青海藩内で起こった外国人商館襲撃未遂事件の黒幕とされている。


「昨年の騒動以来、鳴りを潜めているあの方が、今回の事件に関与しているのではないと重臣たちの間で話題になっている。殿は口にされないが、憂慮されていることに間違いない。そこで今回の長崎警備にかこつけて、奥方様を一時長崎へ避難させる案が出た」

「なるほど、あの方の影響が及ばない長崎へ奥方様を遠ざけているうちに、事件の下手人を突き止めようというわけか」

「うむ。しかし、なお殿は奥方様の身辺に懸念をしめされておってな。警護の人選を行えとのご内意だ」

「さよう。当然のご懸念だ。しかし、それがわしとなんの関係が……」

「おぬしでなければならんのよ。耳を貸せ」


 橘は、座布団を降りて兵庫のそばににじり寄ると、耳元に口を寄せてなにごとか呟いた。うなずきながら聞いていた兵庫は、聞き終わるとおどろいて橘の顔をまじまじと見つめ返した。


「正気か? 彦右衛門」

「むろん。承知してくれるな」


 そのあともふたりの密談は続いた。斎家の座敷に爽やかな風が吹き込む、晴れた午後の日のことだった。


(つづく)

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