第五話 仮夫婦の始まり
顔合わせの日から数日は慌ただしかった。仮の夫婦とは言え結婚するわけなので、独立ということで新居を構えなければならない。これは行政が保有している建屋の中から開いているものを選択することで入居できるのだが、そこへの引っ越し作業が面倒だった。
ただ私物を移動させて生活が可能な状況を作るだけでなく、芸術屋としての仕事も行えるように仕事道具から設備までの全てを移動させなければならない。さらに移動させた後は仕事ができるようなレイアウトにする必要もある。それを仕事の納期などの関係もあり、たった数日で行ったのだから疲労困憊だ。
「疲れた・・・」
とりあえずこちらの引っ越し作業は終わった。仕事の道具や設備の配置もなんとか終わらせた。日はすでにどっぷりと暮れている。夕食を作る余裕もありはしない。
「一回寝ようかな・・・」
まだ開いていない箱も多い自室の椅子に座り、机に伏せる。前世の学生時代にはこういう姿勢で良く授業中に居眠りをしたものだ。そんなことを思っていると、疲労が溜まった体が睡眠を貪ろうとしているかのように、瞼がどんどん重くなっているような気がしてくる。体はすでに動かない。このまま眠る以外の選択肢を体が与えてくれないかのようだ。
「明日・・・から・・・か・・・」
今夜はまだこの新居に一人。二人になるのは明日からだ。物音一つしない一人静かな夜の自室。徐々に睡魔に思考が浸食されていき、意識は完全に眠りの闇の中へと落ちていった。
目が覚めたのは物音のせいか朝日のせいか昨夜とは打って変わってからだが言うことを聞いてくれる。
「仮眠のつもりだったのに・・・朝になっちまった」
急いで椅子から立ち上がる。バサッと床に落ちる毛布を気にとめることなく部屋を飛び出し、新居の玄関へと向かう。
「ぷっ、なんて顔。寝起きって丸わかり」
業者に引っ越しの荷物を運んでもらっている、少女のようにしか見えない仮の新妻。彼女との新生活が今日から始まる。その不思議な感覚は前世で経験した事のないものだ。だからどうしていいのかわからず、ただただ慌てて飛び出してきてしまった。
「えっと、荷物運び・・・手伝おうか?」
「業者にやってもらうから大丈夫」
「あ、そ、そう?」
自分でも戸惑っているのがわかる。おそらく想像以上に挙動不審だろう。
「ちょっと、変に動揺しないでくれる?」
対して徒死し何しか見えない目の前の新妻は堂々としていた。
「あくまでも行政の制度に則った仮の夫婦なんだからね」
「お、おう・・・」
堂々としている新妻と、動揺が隠せない自分。どうにも情けないと思いつつも、それが自分自身だからしかたないと言い聞かせる。ないものをねだったところでないのだ。経験値も知識も無ければ、肝っ玉も度胸もない。それは前世の記憶から痛いほどよくわかっている。
「あなたの自室と作業場は予定通り?」
「ああ、だからこっちの部屋とあっちの部屋は開いているよ」
「わかった。じゃあ私も予定通り自室と仕事部屋にもらうね」
芸術屋をしている自分の自室と作業部屋はすでに確保している。そして新妻である彼女にも仕事があり、自室と仕事部屋を確保するというのが当初の予定だった。彼女の指示で業者が荷物を運び込んでいく。そして瞬く間に荷物の搬入を終え、業者は早々に新居を後にしていった。
「えっと・・・」
二人きりになったところで気の利いた会話も出てこない。まだ初対面から数日だ。しかもその数日で新居決めから引っ越しの手配などの時間を差し引けば、ほとんど会話らしい会話はなかった。だから今日、こうして新生活が始まるというのに、お互いまだまだ初対面と変わらない。
「あんまり話してなかったし、改めて自己紹介でもしようか」
「そ、そうだな。それがいい」
面と向かって会話をしたのは初対面の時くらいだ。志麻子その時でさえ両親同士の会話がほとんどだった。だからここから始まるという意味も込め、自己紹介はスタートとしてこれ以上無い提案だった。
「俺はトーマ。芸術屋をやっている。よろしくな」
「私はローナ。こっちは小売りの商店。よろしくね」
いい提案だとは思ったが、仮とは言え夫婦となる間柄だ。こんなスタートで本当にいいのか、と自己紹介が終わってから気になってきた。しかしまともに顔を合わせていなかった間柄だ。これ以上の提案は思いつかなかった。
前世で自分が生まれるよりも前の古い時代、お見合い結婚が普通だった時代はこういった感じだったのだろうか。
「じゃあまず、この家の収入の確保から話し合おうよ」
新妻ローナから実に堅実な提案が成された。新たな夫婦の門出で行政から多少の援助はある。しかしその援助は潤沢とは言えない。夫婦で収入を得なければ生きてはいけない。それらのバランスが取れるかどうかも含めての仮の夫婦期間と考えれば、実に良くできたシステムだと思えてきた。
夫婦として最初の会話は自己紹介、次の会話は収入の話。実にロマンスのない現実的で冷めたスタートだった。
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