後悔と覚悟

 

「……」


「……」


 空気が冷えていく。

 今この時だけどんどん部屋の気温が下がっていくような気がした。


「あ、ひ、しょじょ? それって……」


 駿河しゅんがはその先の言葉が出なかった。

 つまりそういうこと。

 今、駿河の頭の中はいつ、どこで、相手は誰なのか、そんな疑問がグルグル回っている。

 いやなんとなく、兄との昨日の会話で答えが見えているような気がした。だが、考えたくはない。


 駿河が言い淀んでいると慧理けいりは小さく呟くように言う。


「……小学校の先生にさ、宮之川って、いた、よね」


 昔のあの時のように段々と目に光が無くなり、生気が失われていく。

 思い出しているのか、体は震え、紡ぐ言葉もたどたどしい。


「私ね、小五の時、片付け係として、体育倉庫に呼ばれてね。……何も知らずに行ったら、あいつが急に扉を閉めて、それで、無理矢理、抑えられて……!」


「あ、わ、わかった。もういいから! 慧理! もう、いいから……!」


 慧理はまるでその時の痛みがまた襲って来ているようで、顔を苦痛で歪ませていた。

 そんな彼女の苦しみが痛いほど伝わり、慌てて駿河は止める。


 彼女の苦痛がどれほどまでなのかわからない。

 同性ではないのだから、その時の苦しみがどれほどのものかわかるはずがない。

 けれど、慧理のその苦痛に悶える姿は心を大きくえぐられる。

 それと同時に宮之川への怒りがふつふつと地獄の釜のように煮えたぎってきた。


 慧理は涙ぐみながら言葉を続ける。


「こんな……こんなけがれた私じゃ、誰に告白したって、絶対無理だって、思って。ましてや、シュン君に告白なんて……嫌われたく、ないから……」


「……」


 駿河は何も言えなかった。

 むしろなんと言えば正解なのか、今の彼にはわからない。

 わからないから、疑問に思ったことでも聞いて見る。


「慧理、もし俺が告白してたら、この話してた?」


「……うん。昔こんなことがあったって話して、それでも受け入れてくれるならって」


「……」


 駿河は考える。

 もしそう言われてしまったら、自分はどんなことを思ったのだろうか。

 そんなこと知らなかったとか? ちょっと一回考えさせてとか? 汚れた奴なんてとか? それとも……


(別に気にしないよってはたして言えただろうか?)


 彼女が怯えているからこそ今、自分は対照的に冷静になれているのだが、その場面だと冷静になれたのか怪しいものだ。


 駿河は慧理を見つめる。

 辛い過去を話した彼女は未だに体を震わせ、自分の服を破かんばかりに爪を立てて握りしめて、必死に恐怖と闘っている。


 寒さを耐えているかのようだ。だから抱きしめて温めてやりたい。

 だが、行動に移すことが出来ないでいた。


 この七年間、彼女が今まで誰に対しても距離を取っていたのは恐怖症からなるものなのか。

 理由を知った今、特に男である自分が近くにいるのはどうなのだろうか、これからも声をかけていいのだろうか、触れてしまっていいのだろうか。


 駿河は一度手を伸ばそうとして、だが引っ込めた。


 そして一息吐くと、伝えたい事、伝えなきゃいけないことをポツリと話し出す。


「慧理、俺さ、俺自身もさ。たぶんだけどお前のこと好きなんだと思う」


「……」


 昨日溢れ出たこの気持ちにはまだ確証はなかった。

 だから “たぶん” と思わず言ってしまっている。


「けれど俺なんてさ、お前みたいに優等生ってわけじゃないし、運動もそれほど出来るわけじゃないし、面倒くさがりで、授業もサボる不真面目な奴だ。正直全然釣り合わないって思ってる」


 自分の気持ちを吐き出していく。素直に、正直に。


「兄貴みたいにさ、期待されてるわけでもないし、何にも出来ないんだ。お前とは天と地の差がある」


「そんなこと……」


「それに俺にとってお前は眩しすぎる太陽なんだ。みんなお前の光に集まってくるけど、俺にはあまりにも眩しすぎて、近寄れない」


「太陽だなんて……そんなわけ……」


「太陽さ。お前の笑顔はいつも眩しんだよ。だから俺にとってちょうど良い距離ってんのが、……ただの幼馴染、なんだ」


「……」


「だから、その……」


 この後どう続けようか、果たしてこのまま断ってしまって良いのか、彼女を傷つけないようにするにはどうすればいいのか。

 そんな迷走が駿河を襲う。


(……そもそも俺は何を考えているんだ? こんな状況で、慧理がこんなに弱っているのにそれでも断ろうだなんて。ヘタレすぎるだろ……)


 傷つけたくなければ受け入れればいい。

 だが駿河にはそんな簡単な話ではなかった。勇気がない、自分に自信がない。

 自己嫌悪が押し寄せる。


「シュン君……」


 駿河が言葉に詰まっていると、突然頰に何かが触れる。

 それは慧理の手だった。そして気が付けば彼女の顔が目の前に迫っていた。


「……!」


 鼻と鼻がつきそうな距離。

 彼女の涙でいっぱいの瞳が駿河を覗き込む。


「……やだよ」


 慧理は呟いた。


「私は、そんな距離やだよ……! 私には……あなたしか……いないのに……」


 ポロポロと涙をこぼしながら、必死に彼女は訴える。


「私には……シュン君しか……」


「慧理……」


 慧理の声がか細くなっていく。

 彼女のその訴えに自分が何を迷っていたのかわからなくなる。


「慧理さ、あの時から人と距離を取ってるよね」


「……よく見てるね」


「まぁね。特に男が怖いだろ?」


「うん、怖い。未だに震えが止まんなくなる。お父さんにですら。それに学校自体も怖い」


「学校も? でもちゃんと登校できてんじゃん」


「それは……シュン君がいるから」


「俺、男だよ?」


「シュン君は怖くない。あの時、ずっとそばにいてくれたから。……むしろ安心できる」


 顔を赤らめながら呟くように言う慧理が可愛らしく、思わず微笑んでしまう。


「……そうか」


「うん、シュン君は、特別」


 慧理も釣られたのか、微かに微笑んだ。


「……うん、そうか!」


「ひゃあ?!」


 駿河は慧理の腰に手を回して自分に引き寄せて抱きしめる。


「あ……シュン君?」


「……俺、なんで迷ってたんだろ。なんで離れようとしたんだろ」


「へ? え?」


「処女とか非処女とか、汚れが何だとかどうでもいいな。お前はお前なわけだし、そこになんの変わりもないもんな」


 駿河は慧理の耳元で呟くように続ける。


「ごめんな……あの時、俺が休まなかったら、何か変わったかもしれない。いや子供だから変わんなかったかも」


 慧理の体を離さぬようにさらに抱きしめる。


「けれど、助けようと努力はした。誰かを呼んできて一秒早く助けられたかもしれない……!」


 自分の中の後悔。それがどんどん溢れてくる。


「その場に居合わせなくても、少しでも早く知っていれば、お前の苦しみを一緒に抱えられたかもしれない!」


 駿河にとっての何気ない七年間。

 授業をサボって、友達と遊んで、親に怒られてそんな当たり前の日常。


 だが、慧理にとってのこの七年間は実に地獄だっただろう。

 同じような日常の中なのに人の目を気にし、人間関係を壊さないように尚且つ自分が怯えない程度の距離を保つ。それでも時に体は無意味に震え怯えて。


 きっと彼女に安息なんてなかっただろう。

 常に恐怖が張り付いていて、それを一人で抱え込んでいるのだ。


 親が知っているのは当然だ、学校に乗り込んでいるのだから。

 けれど同級生に知っていた人はいただろうか。

 兄は知っていたが、それは近所だからかそれとも唯一父から聞かされていたのか。

 少なくとも駿河は今日まで知らなかったのだ。耳にしたこともない。


 思春期の真っ只中、特に色恋に敏感な歳だ。

 変な噂を立ちたくなかったから隠したかっただろう。

 きっと共有出来る人なんて誰にもいなかっただろう。


「大丈夫……これからは、俺が一緒に、抱えてやる」


「シュ……く……ん」


 気が付けば駿河も慧理と同じように大粒の涙を流していた。


「俺が、ずっと、いるから……」


「ひぐっ……うん……」


 冷えた体が異常なまでに熱くなっていく。

 それから二人はお互いに抱きしめあったまましばらく泣き続けた。





 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー





 気が付けばとうに昼は過ぎており、夕方になっていた。

 

 夕日は沈み、部屋の中が暗くなってくる。

 赤く差し込む光の中で、二人はまだ離れないでいた。というよりも駿河は離れようにも離れられない。

 何故なら慧理が未だにしがみついていて離してくれないのだ。


 高ぶっていた感情がようやく落ち着いてきて、そろそろ帰らないと、と暗くなっていく空を見て思う。


 さっきまで聞こえていた彼女の嗚咽おえつも今は聞こえない。もう落ち着いたのだろう。


「け、慧理。俺そろそろ帰んないと」


「シュン君、まだはっきりと聞いてない」


「え、何を?」


「告白の返事」


「え」


 駿河にとって少し前のあれが返事のつもりだったのだが、彼女はあれを返事として認めてくれなかったようだ。


「もう一回、聞くよ?」


「う、うん」


 慧理は顔を上げて、紅潮させながら駿河を見つめる。

 その顔は緊張のそれではなく、何処かイタズラっ子のような笑みを浮かべていた。

 思わずその顔にドキッとする。


「シュン君……真宮駿河君。小さい頃から好きでした。そして今も大好きです。だから……付き合ってくれませんか?」


 珍しく愛称でなくフルネーム。そしてはっきりと慧理は告白する。

 その威力は爆発的なもので、容姿の良い彼女からとなるとこんなの断る奴とかどうかしていると思えてくるほどだ。


「あ、うん。はい、こんな俺ですけど、よ、よろしく、お願いします!」


「ふ、ふふふ、何それ」


「あ、ははは……」


 あまりの緊張に敬語になってしまった駿河に慧理が可笑しくてクスクス笑う。

 それはいつもの、いやそれ以上に眩しい笑顔だった。

 釣られて駿河も笑ってしまう。


「じゃあ恋人にもなったし、ちゅーして?」


「え」


 慧理は目を閉じて顔を鼻先まで近づけて止める。


「〜〜〜〜!」


 せっかく落ち着いていた心臓がまた早く、今まで以上に早鐘を鳴らす。


(ちょっと早急すぎない?!)


 ゴクリと唾を飲み、荒くなる鼻息を抑えながらどうするか迷った。


(い、勢いで行くか? いやしかし勢いで行ったらなんか理性が壊れそう! ガチで送り狼になりそう!)


 駿河としては慎重にいかないといけないと思った。

 辛い過去を持つ彼女だ。段階を踏んで時間をかけないとまた怯えることになる。

 何より心の準備が出来ていない自分はまだ勇気が足りないでいた。


 駿河は無言で彼女の口を手で押さえた。


「うぐっ?!」


「うーんごめん。心の準備がまだだから、もうちょい待って」


「……もう、ヘタレ」


「うっ……」


 いじけるように言う彼女の言葉がグサリと刺さる。


「シュン君からして欲しいから、待ってるね?」


「う、うん」


「早くヘタレ治してね?」


「は、はいはい」







 ようやく解放された駿河は帰るために見送る慧理と部屋を出る。

 すると台所より、いい香りとトントントントンと板を打ち付ける音が聞こえてきた。

 まさかと思い覗いてみると案の定、慧理の父が料理をしていた。


「お、おじさん……」


「お父さん……」


「ん? お、二人ともお話しは終わったかな?」


「え、あ、はい」


「い、いつ帰ってたの?」


「うーん、一時間半前くらいかな?」


「き、聞こえてた?」


「叫び声はあったけど、でもそんなに聞こえてないよ」


 と、言っているが聞こえていることに変わりはない。


「話せたんだな、慧理」


「へ?」


「顔を見ればわかるよ」


「あ、うん」


 慧理は父の言葉に嬉しそうに頷いて、駿河の腕にそっとしがみついた。

 それを見て慧理の父はニコリと笑う。


「駿河君ご飯食べて行く?」


「え、あ、いや迷惑かけらんないし、向こうも用意しているだろうし」


「別にいいよ。連絡しておくから」


「そうだよシュン君、食べていけば?」


 何故か慧理からも誘われた。がっしりと腕を組まれて。


「え、あー……うん」


 結局、紅里こうさと親子に完全包囲された駿河は頷くしかなかった。

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