第239話

「柊、大丈夫か」

「……おや、じ?」


 覗き込んでくる父の顔は、笑顔と泣き顔が混ざったような不思議な表情だった。柊は瞬きしながら周囲を見回す。


「ここ……」

「病院だ。骨にヒビが入っているのと、打撲だそうだ。暫くは入院だな」

「ヒビ? 俺、怪我したの?」


 驚いて問いかえすが、その時父の言葉を肯定するかのように体に痛みが走る。本当に怪我をしているようだった。


「いってー……。なんでだろ、あちこち痛え」

「それは、車がぶつかったんだし」

「車? え、もしかして交通事故?」


 柊はまた驚く。いつの間にそんなことになっているのだと、必死で朝からの記憶をたどるが、これも事故のせいなのかはっきりしなかった。


 まだ事故のショックが残っているのだろうかと、忠道は心配げに柊の額に手をやる。何年振りかに父から小さな子供のように扱われ、柊は面映ゆくて小さく笑った。

 しかし忠道は、その笑顔を見て、これから言おうとしていた言葉を飲み込みそうになる。だが、黙っているわけにもいかない。これを告げる役目は、父である自分の仕事だ。


「柊、落ち着いて聞くんだ。……咲さんが、亡くなった」


 思わずぎゅっと目を瞑る。どれだけのショックかと、忠道ですら想像しきることはできない。

 しかし、柊の反応は、それ以上のものだった。


「……誰、それ」


◇◆◇


「逆行性健忘症、いわゆる記憶喪失のようなものだと思うのですが……」


 柊を検査した医師は、忠道に説明しながらはっきりと断言できずに首をひねる。


「逆行性とは、現時点より以前の出来事についての記憶が障害される症状です。ただし、息子さんの場合たった一人の人物についての記憶だけが障害されている。恐らく相当な心的衝撃を受け、それに耐えきれず、記憶ごと消去することで心を守っているのだと思われます。一種の解離性障害かもしれません」


 忠道は説明を聞きながら、これ以上ないほど納得し、心の防衛反応に感謝した。

 そうでもしなければ、柊は喪失感と悲しみで、自分の生すら投げ出している可能性もあったからだった。


「いつか、思い出すのでしょうか」

「それはなんとも……。今すぐにでも思い出すかもしれないし、一生このままかもしれません。原因が心的ストレスだとすると、精神科で治療することは可能ですが、本人のためには治療を開始するタイミングには十分注意する必要があります」


 忠道は頷いた。

 頷き、むしろ思い出さないほうが柊のためだ、一生このままでいたほうがいいだろうと思う反面、親としてそれでいいのかと否定したくもなった。


◇◆◇


 車いすに乗せられて、柊が向かった部屋では、忠道に説明された通り、遺体が安置されていた。

 その横に真っ赤な目をした楓と、楓の母、そして小出沙紀の姿もあった。


「あんた、なんで……」


 驚いて声をかけるが、彼女もまた泣きはらしたような顔をしており、柊は尚更、遺体が誰なのかが気になった。

 警官が、顔に掛けられていた布をそっと外す。顔が見えたが、柊はやはりこれが誰なのか分からない。


「楓」

「……っ、なに」

「この人、誰だよ」


 聞いた瞬間、楓は信じられないと言いたげに目を見開いて後辞さる。


「いや、ほんとに。俺の知ってる人? 俺、交通事故に遭ったって親父に聞いたんだけど、じゃあこの人も被害者なのかな」


 再び女性に目を向ける。小柄で、小さく白い顔は優し気に見えた。シーツ越しに全身をよく見てみるが、やはり記憶の中の誰とも一致しない。


「亡くなったんだってな。気の毒にな」


 そして警官の真似をしてそっと手を合わせると、看護師に病室へ戻りたい旨を告げて部屋から出ていった。


 残された楓と沙紀は、冷たくなっている咲の手を握り、再び涙があふれてくるのを止めることが出来なかった。

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