第232話
柊が帰った後、二人分のコーヒーカップを洗いながら、宗司は自分で自分に舌打ちしていた。
『帰ります』
といって立ち上がった柊に顔色はなくこちらを見ようともしなかった。
(あんな風に言うつもりじゃなかった)
確かに自分の想い人である咲を、まだ子どもだと思っていた柊に搔っ攫われた怒りはあった。だが自分の苛立ちはそれだけではないことも、分かっていた。
それでも、柊がこの程度であそこまで傷つくとは予想していなかった。柊を目の前にして予定外に理性が吹き飛んでしまった失態は認めるが、柊の傷ついた本当の理由が思い浮かばなかった。
「くそっ!」
思わず、手に持っていたカップを力任せにドアにたたきつける。しかし当たり所が悪かったのか、割れることなくカーペットに転がった。その中途半端な結果も、宗司の苛立ちに拍車をかけた。
◇◆◇
柊は家までどうやって帰ったのか、あまり覚えていなかった。
頭の中では、宗司の言葉がずっと渦巻いている。
『咲さんから聞いた』
『お前もあの人もちゃっかりしてるな』
『同情を利用したんだろ』
そんなことない、そんなはずはない、と思うそばから、宗司が嘘をつくはずはない、彼の考えることに間違いはないと、過去の経験が否定してくる。
そして一番ショックだったのが、咲が宗司に自分達のことを話していた、ということだった。
あれだけ周囲には黙っていたほうがいいと言っていたのは、咲ではなかったか。それなのに自分に相談もなく話したのか。
元義弟で、咲の過去についてはよく知っている。しかも宗司は人としても頼もしくて信頼できる。
(俺より宗司さんを信用してても……仕方ないよな)
父に全面的に賛成され、それを咲も喜んでくれた。まだ全ての問題をクリアできたわけではないが、自分達の未来は明るいと信じることが出来た矢先に。
目の前に、進めど進めど晴れることのない濃い霧が立ち現れたようだった。掻き分ければ、行きついた場所に咲は待っていてくれるのだろうか。しかしそれを期待したそばから、想像上の咲の隣には自分ではない男が立っているような気がした。
「あのさー、この問題なんだけどさー」
突然バァン! と破壊音がして、柊は飛び上がる。驚きすぎて、本当に口から心臓が転げ落ちるかと思った。
「な、か、お……」
「ごめん、イミフすぎ」
「な、なんで、楓、お前……」
「分かんない問題があったから? 明日予備校でテストあるからさー」
ズカズカ部屋に入ってくると、ガタガタと勉強机の椅子を引っ張ってきて、背もたれに抱き着くように座る。
「ここここ。あんたこないだ放課後に説明してたじゃん。あれ教えてー」
差し出されたのは予備校のプリントのようだったが、確かに学校の教科書に載っているのと同じ問題だった。
普段の柊なら考えるより先に解き方を説明できるのだが、今はそれだけの余裕もない。更に楓が来たことで気持ちが緩んだ。
「ちょ……、どしたの、あんた。号泣?」
ぼたぼたと流れ落ちてくる涙が、プリントの上で丸まっていた。
柊から一通りの話を聞き終えるまで、結構な時間を要した。途中で福田が食事を呼びに来たが、さすがにそんな状態ではないと判断した楓が断った。
話し終えてからも、暫くはお互いに沈黙が続いた。柊は全てを吐き出したことで、重かった気持ちが楽になり、思考を整理することが出来た。
「ほら」
タイミングを見計らうように、楓がボックスティッシュを差し出す。黙って受け取って勢いよく鼻をかむと、更にスッキリしたような気分になった。
きったねー、とぼやきながら、楓は安心したように足をぶらぶらさせ、一つだけ問い返した。
「てかさ……、あんた、相川先輩と咲さん、どっちを信じたいわけ?」
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