第230話

 遠くでカタコトと音がする。聞きなれない物音に、まだ寝ぼけている頭のまま想像を巡らしていると、少しずつここが咲の家だということを思い出した。

 むくり、と起き上がってリビングに行くと、既に着替えて朝食の準備を始めている咲が目に入った。


「おはよ」

「きゃ、びっくりしたー……。おはよう」


 そっと足音を消しながら近づき、背後から抱きしめた。案の定、咲は作業に没頭していたようで心底驚いたらしい。回した腕の少し上で、鼓動が強くなっているのを感じて柊も恥ずかしくなる。


「日曜日だし、まだ寝ててもいいよ?」

「咲さんだって早起きじゃん」

「これでも普段よりは寝坊してるけどね。起きちゃうなら顔洗ってきて。ご飯作っちゃうから」


 しかし、柊は咲にくっついて離れようとしない。まさかここで二度寝か? と疑ったが、どうやらそうではないらしい。


「こら、ダメって言ったでしょ」

「……離れたくない」


 ぺちっと頭を叩かれたが、柊はそれすら愛撫と変わらなかった。

 腕の中の咲の体温、感触、息をすると胸の中に入ってくる匂い、すぐ近くで聞こえる声。他の人間と同じはずなのにまるで違う。それは咲だから。

 絶対に失いたくない。少しでも離れていたくない。もう誰にも邪魔させない。


 気が付けば、より強く抱き寄せていたようだが、そんな柊の覚悟が伝わったのか、咲もじっとされるがままになっていた。




「あのね、柊くん、この後なんだけど……」


 朝食を取りながら、咲が提案してきた。

 もし忠道が家にいるなら、二人のことを話したい、と。


「黙っていようって言ったの、私のほうなのにごめんね。でも」

「俺も、同じこと考えてた」


 箸を置いて、柊が頷く。


「やっぱり親父には話しておきたい……。反対されても、説得する。まあ、無いと思うけどね」


◇◆◇


「そうか……、うん、そうか、うん、うん……」


 ガチガチに緊張しながら忠道の前に座り、二人の関係性が変わったことを、咲と柊が代わる代わる報告した。

 大丈夫だよ、と言っておきながら、いざ本人を前にすると、反対される予想で冷や汗が止まらなかった。

 しかし忠道の反応は、いい意味で二人の予想を裏切っていた。


「咲さんなら安心ですよ。良かった良かった、なあ柊? お前、咲さんが初恋なんだよな?」

「ば、ばばば、バカか親父! 何言ってんだよ!」

「あれ、違ったのか? 彼女とか連れてきたことなかっただろ」

「いいいいいないよ! 咲さんが初めてだよ! だ、だけど……」

「でもなぁ、お前まだ一応高校生なんだし、そこんとこは……」

「あっ、そ、それは、私がちゃんと言ってありますので……、その……」

「うん、咲さんのことは信頼してますから。でもこいつが暴走したら、蹴っ飛ばして逃げてくださいね。何だったら私にSOSくれても」

「そんなことしねーよ! なんだよ、俺野獣かよ!」

「さすがにそこまでは思ってないけどな。そうだ、お泊りの時は楓ちゃんも一緒に」

「いらねーよ! うるさくて仕方ねーよ、あいつがいたら!」

「楽しいから、私はいいけど?」

「咲さんまで?! やめてよ、あいつ来るよ、エスパーだから、ほんと!」


 そして柊はあたりをキョロキョロ見回す。どこからともなく現れても、楓なら不思議ではなかった。


「柊くんには、本当に感謝してるんです」


 そんな中で、咲が独り言のように話し始めた。


「息子とのこともそうですけど……、自分の弱いところを、柊くんのお蔭で気づけたり、逃げないで向き合おうって思えたり。って、一度は逃げちゃいましたけど」


 一年前を思い出す。柊のため、と言いつつ、実は自分を守って逃げただけだったと、今ならハッキリわかる。


「桐島さんにご心配をおかけするような真似は絶対にしません。柊くんが大人になるまでは、立場としては半分は母親的な気持ちでいますので、そこは信用いただけると助かります」


 静かに頭を下げる咲に、忠道も合わせた。


「こちらこそ、不出来な息子がご迷惑をおかけすると思いますが、末永くよろしくお願いいたします」


 顔を上げて見合わせる二人に、柊だけが不満顔だった。


(母親、っていうのは、ナシになったんじゃなかったのかよ……)

 

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