第229話

 一つずつ、落ちているものを拾い上げるように咲が当時を振り返るのを、柊はじっと聞き続けていた。

 時々言葉が止まる。泣くのを我慢しているのだろうか、と思うと、喫茶店などではなく、咲の家に戻ってから聞けばよかった、と後悔した。


「だから、本当に驚いたの。マコトって言ったから」

「あれは……、前も言ったけど、その……」

「分かってる。そのあとすぐに本当の名前教えてくれたしね。でもそのおかげで柊くんと知り合えたのかな」


 しかし、と咲は心の中で首をひねる。

 柊のアルバイトの責任者は宗司だそうだが、偽名についても知らないはずはない。宗司は誠を両祖父母よりも可愛がっていた。その甥っ子と同じ名前を、なぜ彼は黙認したのだろう、と。


「もう俺がその名前を使ってたことは忘れてよ。誠は咲さんの息子だけだよ」

「うん、わかってる」

「てかさ……」


 店主以外誰もいないことをいいことに、柊はテーブルの上で咲の手を握る。


「俺、息子じゃないからね。もうわかってると思うけど」


 一気に真っ赤になって、うんうん頷く咲を見て、柊はやっと安心した。


◇◆◇


「俺、今日泊る」


 咲の家に着くなり、まだ日が高いにもかかわらずそう宣言した柊に、咲は困った顔をした。


「だから、それは……」

「やだ、ダメ。今日は泊る。咲さん一人に出来ない」

「どうして?」

「昼間の様子見てたら当たり前だよ。しかも今日は本当の命日なんだろ? 俺が帰ったらあの写真の前でまた一人で泣くんだよね。そんなの、ほっとけるわけないじゃん」

「そんなこと……」


 しない、と断言出来ない自分が情けない。口ごもる咲の顎を、柊はそっと救い上げた。


「何もしない。約束する。だから、そばにいてもいいよね?」


 咲は、ノーと言えない自分に失望しながらも、嬉しくて泣きそうになるのを必死で堪えていた。


◇◆◇


「あら、珍しい。あなたがこの家に帰ってくるなんて」

「今日くらいは、ね」


 相川家の広い玄関に、身一つで現れた次男坊に、呆れた驚き声をあげる母に宗司は『ただいま』と言いたくなくて違う言葉を返す。


「今日は、って?」


 意味が分からない、と言う母に、宗司は小さくため息をつく。七年前、あれほど大騒ぎして咲に家出までさせておいて、思い出しもしないとはどういうことか。


「線香だけあげたら帰る」

「……ああ、そういえば、今日だったわね」

「それだけかよ」

「教えてくれて助かったわ。あなた、車出しなさい。お墓参りに行くから」

「一人で行けば? 親父は?」

「町内会よ。いいから、ほら。誠だって仏壇じゃなくてお墓の前で手を合わせてもらったほうが嬉しいわよ、絶対」


 さっきまで命日であることすら忘れていたくせに、と、母の厚顔ぶりにはあきれるばかりだが、問答するエネルギー自体もったいなくて、黙って踵を返した。




「まあまあ、お久しぶりですー、ご無沙汰してしまって」


 墓参の前にあいさつに行くと、住職の妻は悪気ない言葉を返す。母を盗み見れば、如才ない笑顔を浮かべつつも若干引きつっているようで、宗司は微かに溜飲が下りた気がした。


「先ほどはお嫁さんがいらっしゃったんですよ。あ、前の、でしたね。そうですか……、もう七年もねぇ。早いですよね、本当に」


 住職夫人の言葉に、宗司はその場にくぎ付けになった。咲が来たのだ。だったら実家になど寄らずに真直ぐにここへ来ていれば会えたかもしれない、と思うと、地団駄を踏みたくなる。

 ぱたぱたと茶の用意に走る夫人がいなくなると、母の声音はがらりと変わった。


「うちには一切挨拶も連絡も寄越さないのに、ここにだけは来るのね。本当に厚かましい」

「母親なんだから当たり前だろ」

「その前にそもそも相川家の嫁だったのよ」

「もう離婚したんだから関係ないだろ、いい加減にしろよ」


 折角咲に思いを馳せて明るくなりかけた心が、母の口汚い罵りで真っ黒に汚れた気がした。やはり同行するのではなかったと後悔したが、車で連れてきた以上置いて帰るわけにもいかなかった。


「じゃあご一緒だったのは義理の息子さんかしらね。再婚なさったのかしら。今は幸せになっているなら良かったですね」


 戻ってきて茶を供しながら、楽し気に話し続ける夫人の言葉に再び母子は固まる。


「再婚、ですか」

「あら、ご存知なかった? じゃあ違うのかしら……。分からないけど、でも高校生くらいの男の子とご一緒でしたよ。お相手の連れ子さんかなー、と思ったんですけどね」


 なぜか悔しそうに口元をゆがめる母を他所に、宗司は柊と咲が並んで墓参している姿を想像し、指先から血が逆流してくるような感覚を覚えていた。

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