第218話

-回想-


 一杯目の飲み物を飲み干す頃には、お互い話すことも無くなっていた。沙紀はあえて自分から終わりを告げる。


「じゃ、仲良くやってね」


 伝票を持って立ち上がろうとすると、その手を上から柊が抑えた。


「いいよ、俺が誘ったんだから、俺が払う」


 色んな意味で驚いて動きが止まってしまっていた沙紀は、小さく笑いを漏らした。


「まだ高校生って知らなかった時ならいざしらず、ここで奢ってもらうわけにはいかないわ。数百円なんだし」

「でも……」

「お金を出すことが大人じゃないわよ?」


 図星を差されたのか、柊は手を引っ込める。じゃあね、と言って通り過ぎる沙紀を再び呼び止めた。


「俺も行く」


 再びカラン、とドアベルが鳴り、店の外へ出た。




「今更なんだけど……、咲さんには」

「当たり前でしょ。彼女はもう私にとっても大事な存在なの。何もしない」


 少し怒っているような硬い声で先を制して否定された。柊は頷く。


「でも、最初はそのつもりだったろ」

「……本当はね。名前を知った時は、ショックで辛かったわ。私はこのためだけに選ばれたんだ、って分かって」

「……ごめん」

「本当に好きなのね、彼女が」


 地下鉄の入口前で、立ち止まって話し続ける。柊はここから降りていくだけなのに、なぜかもっと話していたいと思ってしまった。


「でも俺も、同じだったんだよ」

「同じ?」

「咲さんの死んじゃった赤ちゃん、マコトって言うんだって」


 忘れたい偽名。けれど、咲の一番大切な人の名でもある。だったらいっそ、自分の本当の名前も『マコト』にしてしまいたい。


「あの話、してあるの? その……」

「バイト? うん、話した。先に宗司さんにバラされてたみたいだけど」


 沙紀は息を呑む。そんなことをしたらどうなるのかを、あの宗司が想像しないはずはない。


(だからか……)


 以前、宗司が『手を打った』と言っていた意味が分かった。しかしその後も柊が普通に自分を避けていたことで、それが何の効果ももたらさなかったことも知っていた。だから自分から咲に近づいたのだ。


 今となっては、咲と縁を結ぶきっかけだったのかとも思える。

 だが。


「じゃあ、彼女知ってるのね、私と君が」

「うん、すげーびっくりしてたけど、拒否られなかった。俺も知られるの怖かったけど、拍子抜けしたくらいあっさりしてた」


 柊と沙紀は目を見合わせ、同時に吹き出した。


「敵わないわね、咲さんには……」

「か弱そうなのに、実は一番逞しいよな」

「一回りも年上の女性に、か弱いなんて失礼よ」

「もしかしたらあんたより強いかも」

「それは薄々気づいてる」


 風に折れそうな野の花のような風情に、初めは苛立った。けれど、倒れそうに揺らぎながらもまたしっかり顔を上げる様は、野の花の強さだ。すぐに大ぶりの花弁を散らす温室育ちの鑑賞花にはないものだった。


「まあ、負けないように頑張りなさい」

「あんたもな……。じゃあ、また」


 そう言って、柊は地下鉄への階段を下りて行った。


『じゃあ、また』


 暗闇に吸い込まれていく柊の後ろ姿と、最後の一言を重ね合わせながら、沙紀は、自分の未練がましい恋慕に別れを告げた。


 もう前のような関係に戻ることは無いのだろう。だが、彼との縁は繋がっている。そして自分が一番恐れていたことは、柊に抱かれないことでも、彼に恋人が出来ることでもなく、縁が切れることだったのだ、と気が付いた。


 入口とは反対側に振り返り、タクシー乗り場へ向かって歩き出す。

 今夜は自分で自分に乾杯したい気分だった。

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