第216話

 柊との電話を終え、入浴する。湯船に肩まで浸かって目を閉じる。湯に数滴アロマオイルを垂らした。深呼吸すると肺の一番奥まで香りがしみ込んでくるようで心地よかった。


 改めて昨夜を思い出す。


 咲としては、まさか自分と柊がそういう関係になるとは思っていなかった。今でも正直、自分の柊への感情が、恋愛感情なのか大人としての親愛の情なのか区別がつかない。

 恋愛とは、もっと余裕がなく、貪欲で拙速なものではないのか。今の自分にそうした要素はまるで見当たらない。時間が経てば変わっていくのだろうか。

 沙紀もいう通り、後半年もすれば柊は高校生ではなくなる。しかしあと半年は高校生なのだ。そして大人の自分は、彼の成長を阻害するような存在であってはならない。

 もし柊が世間の規範を超えるような行動を取った時は。

 自分は拒絶出来るのだろうか。


 昨日の自分を思い出すと、正直言って自信は持てなかった。


◇◆◇


「もう秋なのに、冷やし中華って……」

「別にいいじゃん、食べたかったんだもん」

「ダメとは言わないけど、お腹冷やさないようにね」


 咲の部屋はほとんどエアコンはつけないらしく、買い物をして歩いて帰ってきたからだには少し暑かった。

 熱を冷ましたくて冷えた麦茶を二人で飲む。柊は既に三杯目をお替りしていたから、咲は尚更心配だった。


「あのさ……」


 茹でた麺を冷水に晒しながら小言めいたことを言う咲を、柊は後ろから抱きしめる。

「ちょっ、柊くん……」

「やめようって言ったじゃん、それ」

「そ、それ?」

「親子ごっこ」


 びっくりして固まる咲の腕を引いて、今度は正面から抱きしめ直す。


「俺のこと、ガキ扱いするなら、そう出来ないようにするよ……?」


 どんどん腕の力を増していく柊から、咲は咄嗟に逃げ出した。


「こ、子ども扱いなんかしてない! だって冷たいお茶がぶがぶ飲んで、ご飯冷やし中華で、さっきアイス買ってたし、だから……」


 言いながら、咲は吹き出してしまった。まるで夏休みの小学生みたいだ。これで食べ終わった後昼寝までしたら完璧だと思った。


「子ども扱いしたんじゃないの、心配しただけ」

「……笑ったし」

「だって、アイス……」


 思い出すとまた吹き出す。坊主頭のキャラクターが目印の人気商品を、違う味でいくつも買っていた。そんなに冷凍庫に入らないと言うと、全部食べるからいいのだと言い返したのは誰だ。

 微かに口を曲げる柊に、咲から一歩近づいた。


「子ども扱いされたくないなら、大人らしくして? アイスは食べ過ぎない、麦茶もがぶ飲みしない、腹八分目で食べ終えたら約束通り勉強する。ね?」


 あっという間にいつも通りの空気に戻る。もしかしたら、と盛り上がった柊の気持ちもまた元通りだった。確かにこの関係も嫌いじゃない。けれど。


(どうして他の女に出来ることが、咲さんには通用しないのかな……)


 自分のことを完全に範疇外とみているなら、不本意だが納得も出来る。しかし先日の出来事は、そうではないことを証明していると思った。


(やっぱり、あの人に聞いてみよう)


 ジーッと咲を見つめたまま黙ってしまった柊を、本格的に不機嫌になったのかと心配になって更に近づいて覗き込んできた咲を、もう一度抱き寄せたくなったが必死に自制した。


(……しばらくは会わないほうがいいのかな、やっぱり)


 前回この部屋で自分にブレーキを掛けられなくなった時は、咲に失望されてまた姿を消されるのが怖くて逃げた。

 でも今は。


(せっかく両想いなのに、これで嫌われたら、俺死ぬ自信あるわ)


 せっせと昼食の準備を続ける後姿が愛おしくてたまらない。

 このままガラスの箱に閉じ込めておきたいような、二度と自分から離れていかないように力いっぱい抱きしめて握りつぶしたくなるような相反する感情に柊が苛まれていることを、咲は知る由もなかった。

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