第212話

 咲を送り出してから、結局注文済みのアイスコーヒーだけ飲んで、沙紀も家に帰った。

 健康管理、体力維持も経営者の務めだ。接待や付き合いで外食が多い反面、一人で食事をする時は栄養面をしっかり考えた食事を欠かさないようにしているのだが、二人の様子を想像すると、やはり心穏やかではいられず、食欲も無くなってしまった。


 着替える気力もなく、スーツのままソファにへたり込む。開けっ放しのカーテンからは新旧電波塔のネオンが左右に輝いているのが見えた。


 この部屋に柊を呼んだことはない。もしもいつか柊と咲の二人を友人として招待することが出来たら。

 そんなバカげた空想を、と、自分を嗤いながら、叶った光景を想像すると自然に顔が綻ぶ。


 だからこそ。

 荒れて落ち込んだ自分の気持ちは、自分一人で立て直さなけれならないと、真っ暗な部屋の中で強く戒めた。


◇◆◇


「結局全然わかってないじゃん」


 自分の下で、息をするのすら忘れているような咲を組み敷きながら、柊は空しい苛立ちを抑えることを放棄した。


「俺がそんな理由でキレてたと思ってるの? 本気で?」


 咲の両手首を握り締める力を更に強める。反射で咲は抵抗したようだが、ベッドに深く押し込められるだけだった。


「もうやめようぜ、そういうの」

「っ……、やめる、って」

「親子ごっこ」


 咲は息を飲む。鼓動も止まったような気すらした。


 それはもう自分との縁を切りたいということなのだろうか。

 それほど怒っていたということか。謝れば済むと、またいつもの柊に戻って楽しく過ごせると安易に考えていた自分が恥ずかしく、堪えがたい淋しさが込み上げてくるのを抑えることが出来ない。


「もう……会わないってこと?」


 気が付けば、咲の声は涙声になっていた。睫毛についた雫が視界の中の柊をぼやけさせる。柊が間近にいるのは見えるが、怒っているのか呆れているのか、判断できかねた。


「だから、そういうとこだよ。ほんと分かってないよね、俺のこと」


 ギシリ、とベッドのスプリングが音を立てる。更に近づいて来た柊の顔に、咲は咄嗟に目を瞑った。


◇◆◇


 しばらくして、上階から人が下りてくる足音が聞こえた。ダイニングから様子を伺うと、咲と柊だった。福田の気配に気づいたのか、咲が振り向く。


「夜分申し訳ありませんでした。これで失礼いたします」


 礼儀正しく頭を下げられ、慌てて福田も倣う。


「いえ、私は……。あの、お食事まだでしたら、簡単なものなら……」

「そんな、ご迷惑ですので。もう遅いですし」

「でも……」

「咲さん明日仕事だから、早く帰ったほうがいいんだよ」


 助け舟を出すように横から柊が口を挟む。遠慮をし合っていたような不毛な会話を中断出来、二人も本音ではホッとしていた。

 しかし、普段の柊なら、ここで自分の提案の尻馬に乗ってきそうな気もする。逆に咲を家に帰そうとすることに、福田は小さく違和感を感じてもいた。


「じゃあ……」

「うん、おやすみなさい」

「おやすみ」


 そのまま一度も振り返ることなく、咲は桐島家を後にした。




 柊の家から自宅までの道は分かっている。電車でもタクシーでも、すぐの距離だ。

 普段ならそうした足を使うが、今日は時間をかけてゆっくり歩いて帰りたかった咲は、極力街灯が多い道を選びながら歩き続けた。


 明日は仕事だ。そしてきっと、あれからどうしたかを沙紀は知りたがるだろう。本来なら今すぐ報告をしたほうがいいのかもしれないが、まだ自分が冷静さを取り戻したとは思えない咲は、礼儀知らずを承知で明日まで引き延ばすことにした。


 昼間より少し熱気が引いた秋の空気は、今の咲の体と心をほんの少しだけ冷ましてくれるような気がした。


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