第210話

 タクシーに飛び乗った咲は、真直ぐに桐島家へ向かった。

 腕時計を見ると、夜の八時を回った頃だった。

 現在地も柊の家も都内だ。きっと九時前には到着するだろう。柊と自分とどちらが先だろうか。毎日帰宅が遅いという忠道はまだいないだろう。もしかしたら二人ともいないかもしれない。そこへ自分が押しかけていいものだろうか。

 しかし、先ほどの柊の様子を思い出すと、そんな遠慮をしている場合ではないように思われた。


 車中で一連のやり取りを回想する。咲が知る、いつもの柊らしからぬ言動だった。けれど自分は沙紀にばかり気を使い過ぎたかもしれない。柊の言い分をなぜもっと聞こうとしなかったのだろうと、今更ながら後悔した。


 会って何をいうのかは考えていなかった。ただ、このまま時間を置いてはいけない。早く行け、と背中を押してくれた沙紀に感謝した。


◇◆◇


 夕食の時間帯だが、柊も、無論忠道も帰ってきていない。普段から多忙な忠道は別として、最近は楓がいなくても食卓に着くようになった柊も不在なため、福田は準備が終わってしまうと手持無沙汰だった。


ピンポーン。


 チャイムに驚き、慌ててインターフォンで応答する。画面を見て驚いた。


『夜分突然申し訳ありません。柊くん、帰っていらっしゃいますか?』

「は、はい。いえ、まだお戻りでは……」

『そうですか……。ご迷惑かと思いますが、待たせていただいてもよろしいでしょうか』


 数秒後、扉を開けると、深々と頭を下げる咲を迎え入れた。




「あの、どうぞ」

「すみません、いただきます」


 客を放置するわけにもいかず、まずはお茶を淹れて出した。しかしそれ以上することもなくすべきことも分らず、福田は困り果ててしまった。


「柊さんは分かりませんが、ご主人はかなり遅くなられると思いますが……」

「はい、柊くんに会いたくて……。ご迷惑おかけします」


 深々と頭を下げられ、福田も慌てて同じくする。

 小出沙紀から、この人と柊の関わりを報告することを条件に手数料をもらうようになって数カ月経つ。週末ごとに顔を出すことは増えたものの、自分は出迎えるくらいでほとんど口を利いたことが無い。常に柊か忠道がいる時に来るので、当たり前と言えば当たり前だった。


 自分が供した茶に口をつけつつ、目は一点を見つめたまま何かを考えこんでいる様子なので、福田は身の処し方に困った。来客を放置して自分の部屋にこもるわけにもいかず、かといって会話をするのも不自然だった。


(急に来たこと、あの人に伝えたほうがいいのかしら……)


 自分を差し置いて桐島父子と懇意になっていく様子が腹立たしく小出沙紀の申し出を受けた。情報提供するだけで金がもらえるし、小出沙紀がこの人の存在を除こうとしていることは分かったので、福田としては一石二鳥だった。


 しかし。

 柊との関係が変わってから、自分でも驚くほどこの人へのわだかまりが無くなった。そうなると、父子が揃って慕っている人の様子をスパイのように情報を流す行為に自分で我慢ならなくなった。


 今も、手元にスマホがあるのだから、ダイニングへ戻ってメールすることは出来るのに、どうにも気が進まない。


「最近は……、柊くんはお家ではどうですか?」


 ふと、咲のほうから話しかけてきたので、福田は飛び上がるほど驚いた。無論傍目には目を上げただけではあるが。


「柊さんは……」

「以前は、夜遅くまで帰らないことが多かったと伺っています。それは、今も?」

「いえ、最近は学校から真直ぐお帰りになることがほとんどです」


 何故変化したのかは分からない。ただ、最近は夕食時に柊がいることが逆に当たり前になっていた。

 福田の返答に、咲はホッとしたように表情を緩ませた。


「良かった……」

「あの」


 気が付けば、福田は自分から声をかけていた。何ですか? というように首を傾げる咲を見つつ、自分の一番聞きたいことを聞こうと口を開きかけた。


「ただいま」


 その時、玄関から帰宅を告げる声がした。

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