第209話
別人のように頼りなげに震えている沙紀の手をそっと握りながら、咲の目は真直ぐ正面の柊を捉えていた。
自分は部外者だと自覚しつつ、黙っていられなかった。
「どうして小出社長の話を聞かないの。柊くん、今日おかしいよ。何をそんなに怒ってるの?」
言葉は柔らかいが、目線は冷たく、柊は咲が怒っているらしいと気が付くまでしばらくかかった。
「確かに気を付けるように、って柊くんに言われたけど、そんな方じゃないよ。色んな事教えていただいてる。柊くん、何か勘違いしてるんじゃないの?」
徐々に柊の中で了解が生まれた。
(咲さんは、俺を信じてない。この女の味方をしてる)
自分が全てを後回しにして毎日咲のことばかり考えているのに。
元はといえば咲が突然いなくなって、その穴を埋めたくて小出沙紀と懇意になった。沙紀の執着が重くなってきたところで、また突然咲と再会した。だから切った。もう自分には咲しかいないと思ったから。
唐突に、柊はもう何もかもどうでもよくなった。
本当は、咲に自分を男として意識してもらうためのきっかけの一つとして、小出沙紀が何故自分を求めるのかを聞こうと思ってここへ来た。そこへ、二人が並んで出てきたので動転して沙紀を問い詰めた。柊としては、沙紀が何かを企んでいて、その途上だと思ったのだ。場所もわきまえず沙紀に詰め寄ったのは、ひとえに咲を守りたい一心からだった。
それなのに、守りたい対象だった咲から、今、自分は責められている。
お前は間違っていると。沙紀は悪い人間ではないと。
今までしてきたことの全てが、目の前で淡雪のように溶けて消えていくような気がした。自分の中にいた『真壁咲』という雪像が、瞬く間に形を失った。
「分かってねえのは咲さんだろ……」
柊は自分の声に水分が含まれていることに気づいていなかった。ただ悔しくて、空しくて、悲しくて、淋しくて、言葉が止まらない。
「咲さんはこの人のほうを信用するんだ。俺じゃなくて……。なんでだよ? この人より、俺のほうがずっとたくさん一緒にいたじゃん。俺はいつでも咲さんのことだけ考えてるよ。咲さんは今何してるかな、とか、頑張りすぎて疲れてないかな、とか、少しでも俺のこと考えてくれてるといいな、とか」
下を向いている柊の視界がぼやける。自分の目を覆うそれがしたたり落ちないよう、必死で瞬きを繰り返した。
「今日だって……、俺なりに考えてここに来た。咲さんのためっていうか、半分は俺自身のためだけど。でも、もういい……」
「いい、って……」
「母親代わりとかさ、色々言ってくれたけど、もういいわ、全部」
そして顔を上げることなく、ふらりと立ち上がってそのまま出て行った。
今度は咲が慌てる番だった。確かに自分は詰問口調だった。少し冷静になった今では大人げなかったと思う。しかし柊も、何故突然投げやりになって帰ってしまったのか分からなかった。
「真壁さん、追いかけてあげて」
隣の沙紀に肩を押され、自分も立ち上がっていたことに気づく。
「でも……」
柊は沙紀を訪ねて来たのではないのか。そして、沙紀もそれを待ち望んでいたのではないのか。異分子は自分ではないのか。その自分が追いかけていいのだろうか。
「あんなこと言ってたけど、でも多分真壁さんが来るの待ってると思う」
「でも……」
「私のことはいいから。お願い」
仕事中の凛々しさは、今の沙紀からは微塵も感じない。まるで別人のように見えるのに、何故か沙紀が旧知の友人のように見える。彼女の思いが手に取るように伝わってくる。
「……分かりました。ありがとうございます」
そうだ、と慌てて財布を出す咲に、沙紀は吹き出す。
「お会計なんかいいから。ついでにここで食事していくから。ほら、早く」
沙紀に急き立てられて店を出る。通りの左右を見渡すが、案の定柊を見つけることは出来なかった。
咲は一つ大きく息を吸って自分を落ち着かせると、空車のタクシーを呼び止めた。
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