第206話

 授業が終わると、『今日も教えて欲しい』と群がるクラスメイトに用事があると告げてすぐに学校を出る。

 手には小出沙紀の名刺を持って。


 スマホのアプリで会社の所在地を検索する。電車に乗って二十分程の距離だった。時計を見るとまだ夕方で、気が逸り過ぎていたことに自分で苦笑する。

 それも、約束をしていない相手だった。咲なら大体同じような時間に退社していることは知っているし、家の前で待つことのほうが多い。しかし沙紀がいつ頃仕事を終えるのか、そもそも名刺のオフィスにいるのかもわからない。

 電話しておけばよかったのだろうか。しかしもうホテルへ呼び出されるのは勘弁だった。今日もその気積もりは全くない。


 ただ、教えて欲しかった。

 何故沙紀が、自分のような子供に拘るのか、と。

 そこに、咲と自分の関係が進展しないことについてのヒントがあるような気がしたのだった。


『その人みたいになるから、そうしたら好きになってくれる?』


 昼間の山辺の言葉が甦る。沙紀は、自分を誰かと重ねているのだろうか。だとしたら、自分が咲にとっての大切な誰かと重ね合わせることが出来れば、咲は自分を特別な存在と思ってくれるのではないか。


 正直、小出沙紀に会うのは嫌だった。力なら自分のほうが強いのだから、無理強いされることはないと分かっていても、沙紀に会うことそのものが、道を間違うスイッチになりそうで怖かった。

 だが、自分から咲へアクションを起こすきっかけが分からなくなってしまった柊にとって、楓と宗司という助けを借りられない現状では、もうこれしか思い浮かばなかったのだった。


 地下鉄の駅を降りて出口から地上に上がる。アプリが示した場所に立つビルは見上げるほど高かった。

 ビジネスマンが忙しなく出入りしている。制服姿の自分は明らかに異質で、慌てて周囲を見回す。大通りの反対側にオープンカフェを見つけ、そこへ逃げ込んだ。

 沙紀が出てきたらすぐ分かるよう、オープンカフェの外側の席に座る。今日話が出来る確証はないが、とりあえず待つことにした。


◇◆◇


『中々戻ってこないから心配したよ。でも報告ありがとう』

「いえ、私こそ、帰社予定時間を過ぎているのにご連絡せず、申し訳ありませんでした」

『うん、次からは事前にね。でもお疲れ様、今日は直帰してくれていいよ』


 気が付けば、夕方の帰社時間を過ぎ、咲の勤務時間も過ぎていた。九月も後半になると、外は暗くなりかけていて、その時時計を見て沙紀と二人で慌てた。そして顔を見合わせて笑い出していた。

 咲は宇野へ電話し、予定を変更してしまった件の報告と謝罪をしたが、彼の業務や社内に影響はなかったようでほっとした。


「こんなに集中するなんて思わなかった。ごめんなさいね、気が付かなくて」

「いえ、こちらこそ。小出社長お忙しいのに、こんなにお時間頂いてしまって」

「折角だから、一緒に食事してから帰らない? この前のカフェ、夜も美味しいのよ」

「そんな、ご迷惑じゃ……」


 いつもの遠慮癖を出すと、軽く沙紀に睨まれた。


「それ、止めなさいって言ったでしょ。こっちから言い出したんだから、迷惑なはずないじゃない。あとは真壁さんが行きたいか行きたくないか、よ。あ、宇野さんから帰ってこいとか言われた?」

「いえ、直帰していいって言われました」

「じゃあ、どうする?」


 ん? と首を傾げて咲の決断を促す。きっとここでノーと言っても普通に受け入れてくれるのだろう。自分の気持ち一つだ。

 何かを選ぶ、という行為を、今までほとんどしてこなかった。誰かが選ぶ、自分はそれに従う。心の底では従いたくないと思っていても、それを表明してはいけないのだと、考えるまでもなく信じていた。


 すう、と一つ息を吸う。今の自分の本当の気持ちを捉まえた。


「是非、ご一緒させてください」


 咲は、ほんの少しだけ前に進めたような気がした。

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