第202話

『一番大切なものって、何ですか?』


 思いがけない問いかけに、沙紀はすぐに返すことが出来なかった。

 自分の立場からすれば、会社だとか社員だとか言って誤魔化すことも出来た。きっと咲ならそれで納得しただろう。

 しかし、今沙紀の頭の中は、柊のことでいっぱいだった。そのせいで咄嗟に言葉が出てこなかった。


「……小出社長?」


 呼ばれて、沙紀はハッと我に返る。気を取り直して、エスプレッソに口をつける。とびぬけた苦みが沙紀を現実に引き戻した。


「不思議な質問ね。……そうね、じゃあ、真壁さんにとって一番大切なものって、どんなもの?」


 質問をそのまま返してみた。どんな返事が来るのか、無意識に恐怖している自分には気づかないまま。


「私は……、息子、ですね」

「……息子さん、いるの?」


 沙紀は、心臓を強く殴られたような衝撃を得る。その息子とは、まさか柊のことではないのか。


「はい、もう何年も前に亡くなりましたが」


 咲は、普通に誠の話をしていることに自分で驚いていた。何故取引先の社長に自分の一番のプライベートを晒しているのだろう。言われたほうだって困るだろうに、と。しかし理由は分からないが、彼女には話しても大丈夫なような気がした。


「今でも一番の心の拠り所です」

「亡くされたの、……それは、大変だったわね」

「いえ、すみません、いきなり変な話して」


 咲も自分用のカフェオレに口をつける。質問に答えてもらっていないのに、自分がカミングアウトしたせいか、清々しい満足感があった。


「私にとって大事なものはね」


 沙紀も、気が付けば口を開いていた。自分が喋っているのに、他人が喋っているような分離感があった。


「大好きな人がいるの。その人よ」


 真直ぐに咲へ目線を向けながら、ゆっくりはっきり告げた。


(私の言っているのが誰のことか、この人は気づくのだろうか)


 まさか、と思う。柊と自分がしていたことを知ってもなお、関係が続くとは思えなかった。自分たちの関係を受け容れられるほどの度量があるようには見えない。きっと今まで守られて庇われて大事にされて生きてきたのだろう。そんな女に理解できるとは到底思えない。

 無意識に咲へ挑戦的な思いを突き付けながら見つめる。


「そうなんですか……。羨ましいです」


 しかし咲は、優しく笑った。少しだけ悲し気に。

 沙紀は、返事をすることが出来なかった。


◇◆◇


 楓から助力を断られた柊は、早速万策尽きていた。

 咲についての悩みは宗司には相談出来ない。きっと前のようにけん制されるに決まっている。

 父になど尚更だった。迷惑をかけるなと怒られるだけだろう。

 柊には、何かを相談する相手はこの三人しか思い浮かばなかった。


 再びスマホを手に取るが、当然だが咲から何の音沙汰もなかった。


(やっぱり、会わない、なんて言うのはやり過ぎたかな……)


 咲と二人きりでいると、近づきたい、触れたいという衝動に勝てなくなりそうで怖かった。しかし会いたい。かといって第三者も一緒にいるのは不満だった。

 自分の衝動的な行動が、咲を苦しめることになるのは火を見るよりも明らかだった。受け入れてもらえるかも、などと考えなくもないが、やはりあり得ないと打ち消すことを何万回も繰り返してきた。


「どうすっかなぁ」


 思わず声が漏れた時、カサリ、と草を踏む音が聞こえた。驚いて振り向く。


「あの……、桐島くん、今、いい?」


 いつからいたのか。山辺がもじもじしつつも柊のいるところへ歩いて来た。


(誰だっけ……)


 見覚えがある気がするが、今の柊は見知らぬ生徒と話をする精神的余裕がない。


「悪いけど」


 柊はそれだけ言って立ち上がる。教室へ戻ろうとしたところで腕を引っ張られた。


「私と付き合ってください、お願いします!」

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