第192話

(小出社長と、柊くんが……)


 柊の口から聞いたときは、咲は、正直あまり深く考えていなかった。目の前の柊に意識が集中していたせいかもしれない。

 しかし、時間が経過するにつれて、気が付けばそのことばかり考え続けていた。

 しかも今、目の前にもう一人の当事者がいる。

 考えるな、というほうが無理だろう。


「というスケジュールで考えているのだけれど、御社はどうかしら、真壁さん。……真壁さん?」

「……え? あ、はい! すみません!」


 つい、小出沙紀に見入ったまま、打ち合わせ中だというのに思考は違うところへ飛んでいた咲は、声を掛けられたことに気づかなかった。


「どうしたの? もしかして、疲れてる?」

「いえ、大丈夫です、月曜日ですし……。申し訳ありませんでした」


 恐縮したように何度も詫びる咲に、沙紀はふう、とため息をつくと、内線電話をかけ、二人分の飲み物を持ってくるよう伝えた。


「じゃあ、少し休憩しましょう。もし分からないことがあるなら聞いて?」


 言いながら、肩にかかった長い髪をそっと後ろへ払う。デスクへ戻した手は真っ白で、爪の先は深いグリーンのネイルが施されていた。さほど広くないミーティングスペースには、ほのかにいい香りが漂う。恐らく沙紀の纏っている香水だろう。


 どこからどう見ても、隙のない完成された大人の女性だった。咲自身を引き合いにだすまでもなく、周囲に沙紀のような女性はいない。

 きっと誰から見ても魅力的な人だろう。その上仕事でも成功している。

 その沙紀が、高校生の柊と。

 

 未成年相手だということよりも、何故よりによってリスクのある柊を選ぶのかが、純粋に疑問だった。


(恋人なら、他にいくらでも候補がいそうなのに……)


 例えば、と、宇野を思い浮かべた。

 沙紀と宇野が並んだところを想像するのは、実にたやすかった。

 そんな事実はないし、逆に柊とのことは本人から聞いていてそちらは事実なのに想像が難しい。


「どうしたの? さっきから怖い顔してる」

「えっ……、そんな、すみません」

「聞きたいことがあるの?」

「っ……」


 咲が脳内で様々考えを巡らせていたことは顔に出ていたらしい。思考を遮るように投げかけられた言葉は、そのまま咲の疑問にぴたりと当てはまった。


「小出社長は……、恋人はいらっしゃるんですか?」

「っ……」


 今度は沙紀が言葉に詰まる番だった。


◇◆◇


『恋人はいるんですか?』


 そう聞かれて、沙紀の脳裏に真っ先に思い浮かんだのは、当然、柊の顔だった。

 本心ではなかったとしても、まだ沙紀に対して笑顔を向けてくれていた頃の。

 条件反射のように、沙紀の気持ちが和らぎ、華やいだ。

 しかしそれも、目の前の咲に意識が向いた途端、真っ黒な雷雲が押し寄せるように消え失せた。

 なぜ、よりによってこの女に尋ねられるのか。

 何の意図があってこんなことを聞いて来たのか。

 もしかして……。


 知らず、ぐっと右手を握り締めていた。

 まるでその手の中で、咲の言葉を握りつぶすかのように。


 沙紀が求めてやまない柊との関係を自分から取り上げ、現在進行形で手にしている咲へ、改めて重暗い負の感情が込み上げてきた。


◇◆◇


『恋人はいるんですか?』


 聞いた瞬間に、沙紀の表情が和らぐのを、咲は見逃さなかった。

 恋人や、想いを寄せる相手を思い浮かべれば、大抵の人は心が温まるだろう。

 沙紀の和らぎは、その類のもののように思われた。


 その時彼女の胸の内にいたのが柊なのか、別の人物なのかはわからない。

 ただ、恋人を思い浮かべて、あんな表情をする沙紀が、柊の忠告する『怖い人』だとは、考えにくかった。


 柊が嘘を吐くとは思えない。

 だが、柊の恐れとは別に、小出沙紀は今恋をしている。

 そしてその相手へ、ごく普通の恋心を向けている。

 それはとても自然なことのように、咲には感じられた。

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