第188話

(やばい、すげー緊張してきた……)


 電話で約束した通り、柊は昼前に咲のマンションを訪れた。いつもは一秒でも早く咲に会いたくて駆け込むようにインターフォンを押すのだが、今日は足が重い。父から預かった小遣いで手土産を買うが、それを選ぶのにもグズグズと時間がかかってしまった。

 早く会いたい。でも話すのが怖い。

 回れ右して、今日は腹が痛いとか嘘をついて帰ろうかと思いかけたところで、電話がかかってきた。

 当たり前だが、咲からだった。


「も、ももしもし……」

『柊くん? もしかしてそろそろ着く?』

「うっ、うん。もうすぐだよ」

『良かった、いつもより遅いから、何かあったのかと思って。じゃあ、待ってるね』


 待ってる。そう言われて、じんわりと心が温かくなる。

 確かに本当のことを話すのは怖い。けれど、この温もりは失いたくない。

 柊は、後数十メートル先にまで近づいている咲のマンションへ、再び一歩を踏み出した。


◇◆◇


「うわ、何これすげー」

「昨日知り合いの方にもらったの。その人が自分で育てた野菜なんだよ」

「知り合い?」


 ドキン、と柊の心臓が強く跳ねる。しかし咲は何故か嬉しそうに頷いた。


「何年も前に、すごくお世話になった人なの。優しくて、お母さんみたいな。親戚でも何でもないんだけどね」

「……女の、人?」

「そうだよ。おばあちゃん、かな、柊くんくらいから見たら」


 にこにこ話しながらテーブルに料理や皿を並べていく咲を見つめ、柊は、はあー、と、深い安堵の息をついた。


「……どうしたの? 野菜多いけど、味付けは柊くん好みにしてあるからきっと食べられるよ?」

「あ、いや、そうじゃなくて……」


 慌てて誤解を否定しつつ、自分と咲の温度差と視点の違いに笑いが込み上げてくる。ついさっきまでの緊張が嘘のようだった。今だったら、何でも話せそうなくらい力みが取れた。

 そのきっかけをくれた、馬鹿でかいナスのグラタンをつまむ。


「あ、こら。手づかみじゃなくて今フォーク持ってくるから……」

「咲さん」


 手についた油をぺろりと舐めとり、柊は真面目な顔で咲に向き直る。


「俺、聞いて欲しいことがあるんだ。これから、いいかな」


 咲は持っていたものをテーブルに並べ終えると、ゆっくり頷いて柊の前に座った。


◇◆◇


 自分がしていたことを話すのは、やはりとても勇気が要った。

 咲の反応が怖かったというのもあるが、改めて言葉にすると、女性を人として遇していない自分が最低としか思えない。


 登録している会社が、客を集める。要望を聞き、アサイン出来る人間とマッチングさせる。客の求めに応じてホテルへも行く。

 自分も、何度も行った。

 セックスがしたかったわけでも、金が欲しかったわけでもない。ましてや相手の女性に好意があったわけでもない。小出沙紀以外名前も顔も覚えていない。

 ただ、自分に媚びて金まで払う女たちを見下す時に、ほんの微かな快感を得るだけだった。


 小出沙紀がある意味特別なのは、名前の音が咲と同じだった、ただそれだけだった。

 だから、咲と再会できた今となっては、彼女は用済みだった。むしろ、関係を続けることは苦痛でしかなかった。柊が一緒にいたい相手は咲一人で、本当にただ一緒にいて話をするだけなのに、小出沙紀との時間の数十倍、数万倍幸せで充実していた。

 愛する人がいるのに、他の女と関係を持つことに無感動でいられるほど、柊は壊れていなかった。


 だから、彼女を切った。

 それで終わったと思っていた。バイトも、受験をきっかけに中断した。宗司への義理でそうしているが、柊は二度とやるつもりはなかった。


 だが、再び彼女は現れた。




 全て話し終えたように思えて、柊は大きく息を吸った。折角の料理が冷めてしまったかもしれないことに、今頃気が付いた。

 怖くて咲を見ることが出来ない。汚いものでも見るような目を向けられていたら、自分はここで終わってしまうかもしれない。

 話したことは失敗だっただろうか。でも……。


 逡巡し始めた思考を遮るように、咲の涼し気な声が聞こえた。


「うん、知ってた」

 

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