第183話
「まあまあ、こりゃ嬉しい。よく来たね」
「ご無沙汰しております。すみません、突然ご連絡して」
「何言ってるの、ほらほら入って。外は暑かったろう」
古い日本家屋特有の、広い玄関の高いかまちを上がる。田村は暑い、と言ったが、この家は戸を開け離すと風が通り抜けるので、冷房無しでも涼しい。
縁側越しに彼女が丹精している畑が見えた。
「ナス、大きく育ってますね」
「ん? ああ、今年は豊作だよ。後でもいでやるから持って帰んな」
「美味しそう、ありがとうございます」
「はい、どうぞ」
咲に冷茶を差し出し、向かい側に腰を下ろす。何年振りかに田村と向かい合うと、名状しがたい安心感に包まれる。この家で世話になったのは数日で、それからずっとご無沙汰していたのだが、そんな非礼を田村は全く気にしていない様子が、自然と咲の心を開かせていく。
「良い顔しとるな」
「……え?」
「あの時の青白い顔が噓みたいだ。弟さんに連れられて帰っていった時はどうなることかと思ったが。……元気そうでよかったよ」
「あの時は……」
誠を亡くし、その喪失感を誰とも分かち合えないことが辛くて家を飛び出した。どうしたいという望みもないまま田村に世話になって、それでも生きる希望を失った瞬間、宗司に引き戻された。
この世に、現実に。
赤の他人の田村に、いくら彼女がいいと言っても、そう長く世話になり続けることは出来ない。宗司も、何が何でも連れて帰るつもりでいることは明らかだった。
誠のいない相川の家に、自分の居場所はないはずなのに。
それでもそこに戻ることが、唯一自分の取るべき行動だということは、分かっていた。
「ご迷惑の上に、ご心配までおかけして……」
「今は、落ち着いてるのかい?」
「結局、夫とは離婚しました。今は一人です」
この数年が、たった一行で終わる程度のものであることに、咲は苦笑する。色々苦労したつもりだが、振り返ってみれば思い出す価値のあるようなものは何もなかった。
柊のこと以外は。
「そうかい……。まあ、一人でもやれているなら十分だ。よく頑張ったね」
「っ……はい」
そうか、自分は頑張ったのか、あの日から。
田村の言葉で、やっと何かの決着がついたように思えた。その合図のように、咲の両目から涙がこぼれ落ちた。
「お昼はどうしようね、そうめんでもやるか」
「あ、私何か作ります。田村さん、何が食べたいですか?」
「おや、嬉しいねぇ。そうだね、折角若い人と一緒なんだから、お任せしようかね。あんたが食べたいものでいいよ。材料は何使ってくれてもいいし、米も炊けてるし」
田村の家の冷蔵庫の中は、いつも新鮮な食材と美味しそうな作り置きの副菜でいっぱいだった。これをそのまま食卓に乗せるだけでもご馳走になりそうだが、田村の意見を優先したい。
その時、大きな卵が目に入った。
「オムライスでもいいですか?」
「面白いねぇ、こんな見た目のオムライス、初めて食べたよ」
「私、少し前にお弁当屋さんで働いてたんです。その時先輩に教えてもらいました」
「何だか難しそうな形だけど」
「簡単ですよ、卵がかたまる前に菜箸でくるくるって回すだけなので」
初めてこのドレスタイプのオムライスを作った時の、柊の驚きようを思い出し、一人で笑ってしまう。どうやるの?! と大騒ぎしていた。
「ああ、美味しかったよ。ご馳走様。……で、何か相談があったんじゃないのかい?」
「はい、その……」
回想の中の無邪気な柊が、先日の姿に切り替わる。そして、自分の後悔も。
「甘えるって、なんでしょうか」
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