第181話

 結局、目的を果たせないまま、柊は宗司のオフィスを出た。外の熱気が一気に押し寄せてきて、柊は顔を顰める。


(もしかしたら、宗司さんのほうが……)


 あれだけきっぱり『渡さない』と言ったのだ。今も宗司は咲を想っているのだろう。自分はその気持ちにすら抗えないまま、すごすごと退散してしまったことになる。

 それは、自分の気持ちが宗司のそれより劣っていた、ということなのだろうか。

 まだ子どもだから、咲を好きになる資格がない、意味がない、ということなのだろうか。

 今の自分は、咲にとってプラスになることは出来ないのだろうか。


 いや、と、一人首を振る。

 プラスどころか、もしかしたら悪いことを近づけているのかもしれない。

 小出沙紀という、得体のしれない存在を。

 それを確かめたくて宗司を頼ったが、それ以前の段階で跳ねのけられてしまった。


 小出沙紀への警戒心。

 咲への想いへの自信。

 宗司の咲への気持ちと自分との距離。


 見えないものに追い立てられるような恐怖で、気が付けば雑踏の中を駆けだしていた。


◇◆◇


「え? 柊くん?」


 夜、自宅へ帰ると、マンションのエントランスに蹲る影が柊だと気づき、咲は慌てて駆け寄る。

 咲の声に反応した柊は、パッと顔を上げて立ち上がった。


「ど、どうしたの? こんな時間に……。遊びに来るって約束してたっけ? ごめん、私、今日は遅くなっちゃって……」

「ち、違うよ咲さん。あの……ごめん、俺も気が付いたらここに来てて」

「……そうなの?」


 バツが悪そうに頭を掻く柊を見て、安心したこともあり、咲は思わず笑いだした。


「別に笑わなくても……」

「ううん、ホッとしたの。でも電話かメールくれればよかったのに。すごく待ったんじゃない? 学校帰り?」

「ううん、別のとこ行った後だから、そんなに待ってない」

「そう……。でもお腹空いたでしょ。ご飯作るから食べてって」

「ホント?!」

「この前ご馳走になったし。こんな時間に腹ペコで帰すなんて出来ないよ」

「やった! あ、俺、荷物持つよ」


(泣いたカラスがもう笑った)


 夏の暑い夜に、柊の顔が青ざめて見えたのは暗がりだったからだろうか。にこやかに隣を歩く様子を見ていると、やはり気のせいだったのだろうと思い直し、咲は玄関を開けた。




「ごちそうさまでした!」

「お粗末様でした」

「……? 粗末?」

「こう返すものなのよ。美味しかった?」

「うん! 咲さんの作るもんは何でも旨いよ! でもやっぱりオムライスが一番だね」

「楓ちゃんは作れるようになったかなぁ」

「……期待しないほうがいいと思う」


 正直な柊の予測に、目を見合わせ、同時に吹き出した。


「あーあ、今日が金曜日なら泊っていけたのに」

「そんなに何度も泊めないからね。お父さん心配するでしょ」

「しないよ。咲さん家なら尚更」


 食休みもかねてだらけていると、咲がてきぱきと食器類を片付け始める。柊は慌てて後を追った。


「俺が洗う!」

「いいよ、座ってれば?」

「いいって。俺がやりたんだから」


 そしてひったくるように咲の手からスポンジと洗剤を取り上げる。家では絶対にしないしやろうという発想すらない家事も、ここでなら楽しみの一つになる。


「咲さん座ってなよ。仕事で疲れてるんだし」

「ありがとう。でも、別に疲れてないから」

「だって……」


 急に心配の一つが浮かび上がる。小出沙紀と、本当に仕事上で関わっているのだろうか、と。


「親父に本借りたりしてさ、大変なんだろ、きっと」

「今まで知らなかったことだから、慌てて勉強してるのよ」

「そんなことさせるなんて、その仕事相手、どんな人……?」


 綺麗になっているはずの食器を、まだこすりながら聞いてみる。少しだけ自分の鼓動が早くなった気がした。


「取引先の人? うーん、女性なんだけど社長さんでね、私と年変わらないのに、何でも知ってるし行動力あるし決断力もあるし、とにかくパワフルな感じの人よ。私とは正反対かなー」

「へえ、女の人で、社長さん、なんだ……」


 やはり、と、柊の中で二つの像が重なり合う。何がどうして二人が一緒に仕事をするなんて事態になったのか、若干思考が混乱する。


「そうなの。すごいのよ、大きくておしゃれなビルがオフィスでね。その人もお洒落で綺麗な人で、憧れるなぁ。部下もたくさんいて」

「咲さんのほうが綺麗だよ」


 気が付けば、柊は大きな声で咲の話を遮っていた。

 嫌でも覚えている小出沙紀の容姿。彼女のイメージは極彩色で硬質で強力だ。

 翻って咲は、控えめで淡い色が良く似合う、触れれば溶けてしまいそうな存在だ。

 でも、だからこそ好きになった。

 そういう咲だから、自分を受け容れてくれたのだと思っている。

 それなのに、咲自身がそうした自分の美点を否定しているような発言を、黙って聞いていることが出来なかった。


「……柊くん?」


 柊の大声に驚いてきょとんとしている咲を見て、柊の中の何かが外れた。


 

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