第175話

「もっと楽しいところに行きたかったのにー……」


 エスカレーターに三人並んで乗りながら、まだ楓はむくれていた。口をへの字に曲げながら、後ろに立つ柊をめつける。


「柊が悪いんだぞ、本屋に行きたいとかいうから」

「お前が買い物に行きたいっつったんだろ」

「本屋じゃなーい!」

「じゃおもちゃ屋か?」

「こら、二人とも静かに」


 客は多いが、本を探す人は概して黙々と見て回る。その中での二人の言い合いはさすがに賑やか過ぎた。珍しく咲に怒られ、そろってしゅんとする。


「この次は楓ちゃんが見たいお店行こうね。あ、あっちの文房具エリア、色々ありそうだよ」

「ウチ見てくる!」


 ばびゅん! と音がしそうな勢いで楓が飛んでいく。後には呆れ顔の柊と、クスクス笑いながら見送る咲が残った。


「あいつ、参考書とか見る気全然ねーな……」

「楓ちゃんは何が得意なの?」

「得意って言うほど成績いい科目もないけど、しいて言えば英語かな。英語は文句言わずにやってるよ。苦手は歴史と古典。年上の男がつまんないんだってさ」

「年上?」

「歴史上の偉人」


 しばし考え、なるほど、と思ったところで咲は吹き出した。いかにも楓らしい理由だと思った。


「あいつ、志望校も、好きな声優の母校だって理由なんだぜ。あり得ないよね」

「どうして? いいじゃない、そういうのも」

「……咲さんも、そういうの、あるの? その、好きな芸能人とか……」

「んー、昔からテレビとかあんまり見ないから、わかんないんだよね」


 咲は言いながら、通りがかりの棚に並んでいるビジネス書の背表紙を眺める。まだどれがどんな内容で、今の自分に関係あるのかないのかすら分からない。小出沙紀に聞いてみようか、とも思ったが、『仕事なのよ』と指摘された後では言いづらい。


 そうだ、と、咲は胸の内で手を打つ。


「今日、桐島さんお家にいる?」

「親父? うん、いるけど……」

「ご相談したいことがあるんだけど、この後柊くん家行っても大丈夫かな?」


 今の話の流れで父に話題が移ったことで、柊は正直ムッとしていた。どうしてここで父が出てくるのか。


「柊くん?」

「あ、うん、ちょっと待って……」


 釈然としないが、咲が家に来るのは無条件に嬉しい。その場で父へ電話すると、二つ返事でOKされた。


「大歓迎だってさ。親父、浮かれすぎ」

「ごめんね、聞きたいことだけ聞いたら帰るから」

「え? なんでだよ、そのまま一緒に晩飯食おうよ」

「でも、家政婦さんにご迷惑じゃ……」

「だからまた四人で外に食いに出ればいいじゃん。旅行の後、そういうの行ってないしさ」


 何故か必死に言い募る柊を、咲は無下に出来ない。忠道が了承したら、という条件付きで頷いた。

 やった! と、コロッと上機嫌になった柊の背後から、見覚えのある影が覗いた。


「あれ? 真壁さん?」

「下田さん? こんにちは」

「びっくりしたー、ここで会社の人に会ったことなかったから……。弟さん?」


 下田は自分と咲の間でキョロキョロしている男の子を見遣る。弟、と言われて驚いた顔をしているのは、もしや赤の他人だろうか。


「いえ、こちらは……」

「こんにちは! 妹の楓と、友だちの柊でーす」


 どう説明しようか迷っていたところに、楓が割り込んだ。新たに女の子まで加わって、下田は面食らう。


「妹さん? えー、真壁さんご兄弟いたのね」

「え? ……ええ、はい、まあ……。あのね、こちら同じ会社の先輩で、下田さん」

「はじめまして! おい、あんたも」


 状況が呑み込めずきょときょとしている柊の頭を押さえ、ぐいっと下げる。慌てて下田も二人に頭を下げた。


(妹ってなんだよ?)

(うっさい黙ってろ、そういうことになってんだから)


 下を向きながら二人は小声で確認し合う。下田は『妹とその友人』という楓の説明で納得したようだった。


「また勉強の本探してるの? 熱心ね」

「今の私では、まだまだ小出さんのレベルには追い付けないので……」

「あんな派手な女社長目指さなくてよくない? まあ、頑張ってね」


 下田は手を振りながらエスカレーターのほうへ去っていった。咲はほっと息をつく。


「咲さん、緊張してた?」

「ううん、ちょっとびっくりしただけ。会社の人だから」

「っ……、もういいだろ、手放せよ!」

「あ、ごめん」


 ずっと楓に頭を押さえつけられていた柊は、ぷはっと息を吐いて起き上がる。髪がくしゃくしゃになっていて、それを指さして笑う楓と、再びひと悶着を引き起こしていた。

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