第174話

 ピンポーン。


 土曜の九時。平日なら仕事を始める時間だが、休日なら咲と言えどまだぼんやりしている時間帯だった。その気の緩みから目を覚まさせるような高い音が鳴り響いた。

 インターフォンで応答すると、やはり、柊と楓だった。


『やっほー、咲さんおはよー。遊び来ちゃったー』

『お前は帰れよ! ……ごめん、家出たところでこいつに捕まった』


 柊はそう言うが、彼とも約束はしていなかった。突撃訪問なのは楓と同じだが、もちろん咲は追い返すつもりはなかった。


「大丈夫だよ、上がってきて」


 言ってから、はたと自分を見下ろすが、あの二人なら普段着でも大丈夫だろうと考え直し、玄関の鍵を開けた。




「だってもう夏休み終わっちゃうんだもん、その前に咲さんと遊びたくって。……あむ、パンケーキうま!」

「咲さんは仕事で疲れてるんだぞ」

「うわー、自分だって来る気満々だったくせに、そういうこと言う? バツとしてケーキ取り上げー」

「おい! 俺んだぞ、返せ!」


 土曜の朝の静けさはもうどこにも無い。部屋に入ってきた楓が開口一番『お腹すいたー』と訴えたので、間に合わせのパンケーキだった。


「お昼まででいいから一緒に遊ぼ? ダメかな?」


 小首をかしげると、ボブカットの髪がさらりと流れる。可愛らしい仕草に、咲は昨日までの疲れを感じつつも、気が付けば頷いていた。


「大丈夫だよ。でも二人とも、勉強は良いの?」

「ぐっ……、夜やる」

「お前は夜だけじゃ間に合わねーだろ。今から帰って一人でやれ」

「えーやだぁ! だったら先生も一緒にー!」


 そう言いながら、いつも勉強を教えてくれる柊ではなく、咲の腕を引っ張った。不意を突かれてよろける。あっ、と思った時、今度は反対側を柊に引っ張られた。


「なんで咲さん連れてくんだよ! つかお前の勉強教えてやってんのは俺だろ」

「咲さんに教えてもらうもん。そのほうが絶対優しいもん」

「わかった、分かったから放して」


 咲は、降参とばかりに手を挙げる。確かに夏休み最後なら、少しは羽目を外してもいいだろうと思い直した。


(結局甘やかしてる。私は厳しく出来ない母親になってたかもしれない)


 自分の子でないから厳しく出来ないのでは、と考えたが、誠に同じおねだりをされても、きっと拒否できなかっただろう、とも思う。


「じゃあ、何がしたいか、二人が決めて? 遠くには行けないからね、疲れたら夜勉強出来なくなっちゃうから」

「やった!」

「……咲さん、いいの? 毎日遅くまで仕事してるんだろ?」


 無邪気にはしゃぐ楓の横で、彼女の分まで申し訳なさそうに確認してくる柊が、たまらなく愛おしく感じる。我儘を言う楓も、子どもらしい気遣いを見せる柊も、どちらも可愛かった。

 平日の疲れなど、とうに雲散霧消していた。胸の奥から沸き上がってくる温かい熱が、自然と咲の顔を綻ばせ、手が柊の頬に伸びていた。


「大丈夫だよ、そんな遅くまで働いてないし。今日は三人で遊ぼう?」


 驚いたように目を丸くして固まった柊の顔がどんどん赤くなる。触っている咲の手にも熱が移ってきた。


「……大丈夫? なんか熱くない?」

「だ、だ、だいじょう……」

「センセー風邪ですかぁ? だったら帰って寝てたほうがいいんじゃないすかー?」

「風邪じゃない! ぜってー帰らない! ほら、お前が言い出しっぺなんだから、なんか考えろよ、面白いところじゃなきゃ許さねーかんな」

「……いつものことだけど、今日は一際偉そうだな、あんた」


 楓はぶつぶつ文句を言いつつ、スマホで何やら検索し始める。柊はきっともう冷めてしまっているだろうパンケーキに、やっと手をつけることが出来たらしい。


「そんなに慌てて食べなくても。のどに詰まったら大変だよ」

「ふぁ、ふぁいふぉうふ。ほいひいほ」

「何言ってんかわかんねーって」


 そしてパシャリ、と音がした。楓が咲に向けた画面では、リスのように頬を膨らませた柊が写っていて、咲は思わずプッと吹き出した。


「ああ、この間の写真も、こういうことだったのね」

「あれも良く撮れてたでしょ」

「んぐっ……、おい、この間ってなんだよ、今のも!」


 どうやらいずれも柊には無断の撮影だったらしい。しかし咲は、しっかりダウンロードして保存してあることを、柊には黙っていようと思った。

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